ある島の物語

葉桜が美しい季節になった。
満開の桜も視線を釘づけにするが、淡い緑色の葉に囲まれた桜も風情があって、また来年、と挨拶しているように見える。そして、風に散る桜の花びらも小さな川には花筏をつくっていて、いい感じになる。

今月の初めに夙川が近くにある西宮の実家に行って家族で花見をした。愉しかった。それから京都の円山公園に出向いて枝垂れ桜の風景を愉しんだ。しかし、外国人の多いこと。すごかった。

今は、書いている評論が終わりかけていて、部屋の中には参考にする本が散乱している。
島尾敏雄に関する評論だが、長さが難しい。400字詰原稿用紙の70枚以内という規定の応募原稿。
どうしても長くなるので、刈り込み?が大変である。あの金正恩のような刈り込み?

学生時代に集中して読んでいた作家の評論だ。去年から、島尾の妻のミホについての「狂う人」という本もでているし(梯久美子氏の労作)、今年は島尾の生誕百年ということもあってか、7月末には島尾ミホの本を原作とする「海辺の生と死」が映画化されて上映される。満島ひかりがミホの役をやるようだ。島尾ミホの関連本も数冊出ている。ちょっとしたブームかもしれない。

評論の冒頭では武田泰淳の作品について触れている。なぜかというと「恥」の感覚がこの論考の主調低音のようになるからだ。武田の初期作品にある戦争中の自分の罪、そしてそれに対する「審判」の意味を考えて導入した。島尾は「死の棘」という私小説と名付けるにはためらうような小説を書いた。妻の狂気であり、家庭の崩壊だ。そして、それは自分の不行跡に起因している(愛人問題)。
おそらく夫婦の争闘をここまで描いた作品は空前絶後と言ってよいだろう。この長編を島尾は16年かけて書いている。小説に出てくる伸一とマヤという二人の子どもも重要な登場人物になる。
実際はこんな家族だった。
e0208107_11362860.jpgこの写真の雰囲気は穏やかなものだが、この家族の歴史は熾烈なものだったと思う。島尾は私小説の形態をとりながら何を書きたかったのか。題名の「死の棘」が表わすように、武田の「審判」と通底するものがあるような気がしている。

「審判」と「死の棘」は、二人の戦争体験なしには生まれなかった作品だろう。武田は戦時中の非人道的な経験があるし、島尾は震洋という特攻艇で死の直前までいってから敗戦を迎えるという極限状況を経験する。あのドストエフスキーの体験を連想するような体験だ。
そして、その時恋人だったミホも懐に小刃をしのばせて自決の準備をしていた。その光景は加計呂麻島という奄美群島にある島で展開された。

全体を美しい海に囲まれた豊かな自然の恵みを受け取る島で、島尾は部隊の隊長として住民の大平ミホと出会う。そこでの日々は初期の短編に描かれているが、強い光りの中での強烈な思い出として二人に記憶されただろう。27歳の隊長と25歳の島の娘だ。二人が死を覚悟している瞬間は島尾の作品「出孤島記」に鮮やかに描かれている。

そして、戦後になってこの二人は平時に帰還して、それからを生きて行かなくてはならなかった。この一瞬の輝きよりも長い時間が二人には残されていた。そこで事件が起きる。ミホの失望は相当に大きなものだったと思う。
「死の棘」の最後の12章で次の物語の準備のような一条の光が見える。これも事実に基づいているが、精神病院に入院するミホに付き添うように島尾も同じ病院への入院を決める。自分がどれほど彼女に非難されようとも当たられようとも同じところでの生活を選ぶ。

この作品にある「恥」と「裁き」の感覚は、現代の日本文学では稀有なものだろう。
武田泰淳は「蝮のすえ」の中で「生きて行くことは案外むずかしくないのかもしれない」と書いた。そう書いた彼は武田百合子との生活を死ぬまで続け、百合子は文章の才を示した。
島尾と暮らしたミホは島尾の死後にはずっと喪服で暮らし、若かった島尾隊長との島での思い出を綴って、この人もエッセイで評価を得た。そして、最後は奄美市で孤独死を迎えた。

評論を書いていてふと思ったのは、世界情勢での戦争騒ぎであり指導者たちの無恥な振る舞いだった。
北朝鮮に対しての防衛を強調し、アメリカ軍との連携がどうなるかという時期に、私もよく知らないような芸人たちを集めて花見の会を主催する首相がいる。うれしそうに夫婦で笑っている。今の日本はそういう国なのだ。

無恥という言葉は無知にも通じるが、間違いなく今日あげた二人の作家は「戦争」を知っていた。
そして、そのような人々は多くは残されていない。だから、彼らの子どもの世代の人間が伝えていくしかないのだろう、そう思う。
[PR]

# by wassekuma | 2017-04-17 11:36 | 文学  

「森の生活」という物語について

ようやく月末までの原稿が終わった。
74000字、400字詰めの原稿用紙換算で240枚のものだが、最後に苦戦。
これで、一区切りつけて次のものに取りかかれる。それまでしばしの休息。

世間では、今月は2月に起きた金正男の暗殺事件に続いて、「森友学園問題」、そしてWBC、稀勢の里の奇跡的な優勝、と続けて起きた出来事で賑やかな月だったなあ。
森友はキャラの立った人々が次々と現れて、まるでヴァラエティか、推理ドラマに近づく双曲線のような状態だったが、本質は「国有地の払い下げ問題」であり、「教育の問題」という二点だと思う。
同じような穴に生息していた多くのハリネズミが、距離が近づきすぎて「痛いよ、おまえ」という感じ。
大阪のおじちゃんとおばちゃんよりも、権力行使できる側が責任が重いのは明白なのだが。
忖度したとかしないとか賑やかだ。

もし、森友学園の理事長が刑事訴追されて、政治家が「ぼくたちは騙されていたんだもんね」という図式が成り立ったとしても、権力の方がよく切るカードの「自己責任」ということだろう。

まるで、トランプの「ババ抜き」のような状態だ。ハートのエースだと思っていたカードが、ババに変化して、「これをつかんじゃいかん」と戦々恐々とカードを引いている。大阪府がババカードを引いたり、政府がカードを引いたり。あげくの果てに夫人秘書が引きそうになったり。忠実な秘書だったと思うが…。やれやれ。
こんなことより、自分にとっては40年来の友人の入院手術の方が大きなことだったのだけれどね。彼は昨日退院してきて一息ついたところだ。ゆっくり休んでください。

先月から、ちょっと興味をもってアメリカの「昔」を調べ始めて、原稿作業の合間にブルースやジャズを聴いていくうちにアメリカの南部が浮き上がってきた。アメリカの南部の歴史、そして、黒人が中心となって生みだしたジャズ。今はセロニアス・モンクの曲がローテーションになっている。

そこで、突き当たったのが、H・D・ソローの「森の生活」だった。今まで読んだことはなかったが、先月帰省した時に神戸・三宮の古本屋で購入した。現在読み続けているところ。
ソローという人は19世紀の初頭から南北戦争の頃まで生きた思想家で、メキシコとの戦争に反対したり、奴隷制度を批判したりした。40歳半ばで結核のために亡くなったが、その後に様々な人に思想的な影響を残している。この系譜がマーク・トウェインに繋がっていると考えてよいかもしれない。そして、20世紀のW・フォークナーに続くのだろう。

彼がウォールデンという池の近くで生活した記録が「森の生活」だ。都会の暮らしから森の中での生活を選んだ。一件の家を手に入れ、豊かな自然に囲まれて森で暮らした人だった。森(の)友を連想しないように。もう、この話からは離れているので。

ソローの肖像が残っている。ヘンリー・デヴィッド・ソロー(1817-1862)。
e0208107_9201548.jpg去年、青森県の深浦にある十二湖を歩いた時に、橅の林の美しさに驚いたことがある。雨上がりだったせいもあって、湖を囲んでいる橅の木々が淡い緑色を光らせながらぎっしりと立ち並んでいた。静かな風景だった。こんな木々の中で目覚めて、夜は木立の上に拡がる夜空を眺められたらと考えた。

こんな生活をマサチューセッツ生まれのソローは選んだのだろうか。文庫本で2冊にわたる著述の中で基調低音のように、富と虚栄に沸き立つ都会の人々を批判している。
2年半ほどの生活だったが、それから150年がたっても貴重な記録だと思う。実は日本でも地図上ではこのような空間の方が圧倒的に多くを占めている。東京や大都市のの高層ビル街は、地図の上ではボールペンの芯の程度しか示されない。

もちろん、森の生活が桃源郷であるということではない。都会で生活するほうがずっと楽だな、ということもあるだろう。まして、「村」の生活には様々ないやなこともある。「村八分」という言葉は死語かもしれないが、いろいろな噂話や悲惨な物語が村には多く転がっている。
そして、今流行している「忖度」という言葉も、川の流れの渦のようになっている。そんな「村意識」で選ばれる国会議員が多く存在しているし、この人たちは地元(選挙区)を大事にする。いい忖度、わるい忖度?
参考資料:首相夫人が名誉顧問になっている「むかつくダブルマラソン実行委員会」というのがあって、何がむかつくのか、と調べたら山口県長門市にある地名だった。ま、そんなことだ。

今思い出してみても、あの時に見た橅の林が与えた感動は別物だった。自然は作為なく姿を見せ、人間を感動させるために存在しているわけではない。記憶を辿りながら、今の時期にあの森はどうなっているのだろうか、とふと思う。きっと、雪はまだ完全に溶けてはいないだろう。
そんなことを思いながら、「森の生活」を読んでいる。その隣には、再読するつもりのMr.南部の作家、W・フォークナーの「八月の光」が転がっている。

そして、とりあえず脚が元気に動くうちにいろんなところをちゃんと歩いていかなければな、と思う。
[PR]

# by wassekuma | 2017-03-29 09:20 | 文学  

小説の日々

もう三月も半ばに差し掛かっている。
速いなあ、時間の過ぎるのが。
伊豆で河津桜を見る旅はしてきたし、来月は実家に帰って夙川の桜を見る予定だ。
季節の移り変わりを見ながら旅をする。空いている時間のおかげだ。

自分でやりたくてやっていることに小説を書き続けるという作業があるが、個人的には、少し複雑な感じがつきまとう。
今年になって少し嬉しいことなのだが、以前に送稿した二つの小説が新人賞の予選を通過した。去年、一昨年も一本ずつ予選は通過したのだが、そこまで。
自分では予選通過の魔術師とふざけているが、まあ、頂上までには届かないのだろう、とあせることもなく、今月末までには二本の作品を送って、しばらくお休み。

基本的には小説は想像力を駆使して書いていくのだと思うが、流儀はいろいろとある。自分の経験をそのままに書いて「私小説」という意匠をはめることもできる。
今、ポール・オースターの「冬の日誌」を読んでいるのだが、この作家とは少し長めにつきあってきたので、前作の「写字室の旅」にも感じたが、自分の「老い」を追憶として語ることを続けているようだ。

「冬の日誌」でも五歳のときにこんなことがあり、それから、こんなこと、と少年時代のことを書き綴る。彼の実体験に精確に基づいているかどうかはわからない。読んでいて、ヘミングウェイが北ミシガンで過ごしていた少年時代を描いていることを連想した。年をとると、こんな風になるのかな。

最近話題の村上春樹もオースターと同世代だが、「騎士団長」はこんな作風にはなってはいないようだ。飛び交う情報から見ると。ま、読まなきゃ始まらんのだが。まだ読んでないし、読むかどうかもわからない。

なぜ、物語や時代精神の影響が小説から薄れているのだろうか。考えてみたら、なんとなくわかる。物語は、コミックやアニメーション映画の方が受け入れやすいし、時代精神などはテレビなどで流れる出来事の方が、よほど文字面を追うより面白いからだろう。面白いよ、正男事件や、森友学園事件は。登場人物も濃いキャラだし。流れる情報に対して無条件に眼を吸い寄せられる人たちが多いのが現代だろう。

まあ、それでも昔風に言うと原稿用紙を文字で埋めて行く作業をする人も多くいる。自分が運よく予選通過した新人賞でも2000名前後の人が応募している。しかし、「純文学」というわけのわからない符牒を貼られた領域は、もう限界集落に近いと思う。どこかで突破できるか。

まあ、そんなことを考えながら書いてはいるのだけれど、前にこの欄で述べたように、黒人の女性ダンサーからジャズの分野に入って、今はジャズの原型のような昔にまで遡っている。その紹介。
ビリー・ホリディに影響を与えたと言われるベッシー・スミス(1894~1937)。43歳で死去。
これもYou tube。

こんな感じの曲をバックグランドとして聴きながら、読んだり書いたりしている。この歌声自体は私の父親の生まれた頃のものだ。1920年代。よく残ってたなあ。
確かこの曲はエリック・クラプトンなども歌っている。

この時代の黒人のミュージシャンのことを調べて行くと、まさに「物語」となる。
このベッシー・スミスの急死も、黒人は入れないという病院が原因となるような出来事だ。交通事故で重傷を負った彼女が運ばれたのは白人専用の病院だった。治療を断られた。酷い話だ。フランスから送られた「自由の女神」はどこを見ていたのだろう。
ブルースを歌うしかないような時代だった。でも、今でもアメリカという国は学習をしない。
マイケル・ムーアの「シッコ」に描かれている。アメリカの病巣は根が深いのだと思う。

で、最近トランプのネタが影をひそめているようだけど、どうなってるの?
[PR]

# by wassekuma | 2017-03-09 18:43 | 日常  

エラを聴きながら

トランプネタに加えて、また大きなニュースが飛び込んできた。
金正男の暗殺事件。映画のプロットのようなことが起きた。
まあ、北朝鮮は王国というより巨大な宗教集団と考えてもいいので(だって、反抗分子の粛清や武器の調達なんて1995年に日本で起きた宗教団体の事件を思いだすでしょ)、ほとんど中世から戦国時代の権力のありように近似している。弟を殺したりしたのは織田信長だったっけ。
でも、儒教の国では、兄に敬意を払うんじゃなかっただろうか。フーテンの寅さんのような兄であったとしても。
寅さんと違うのは、おいちゃんの家に戻って妹に会ったりすることが二度とできない境遇だったことだ。
入国拒否ってやつですか。

まあ、そんなことを横目で見ながら、いまは3月末までに仕上げる原稿に取り組んでいる。山で例えると7合目を越えたところだが、焦るわけではなくゆったりと書くことができる。
バランスがとれるのは、今自分がはまっている本をシリーズを読んでいくことや、原稿に向かう時に後から聞こえる音楽を、これもまたシリーズでまとめて聴くことだったりする。

前回にジョセフィン・ベーカーのことを書いた。そして、彼女の伝記を読んでいくと、年老いた彼女があの1963年のワシントン大行進にも参加していることを知った。マーティン・ルーサー・キングの有名な演説を聞いていたわけだ。あの場所で。

ジョセフィン~虐げられた黒人の歴史を背負わされた踊り子。ジャズシンガーでもビリー・ホリディやその後に続く、エラ・フィッツジェラルドなどを思いだした。

時計の針を戻す。40年以上前に、私は吉祥寺に住んでいて、「Funky」というジャズ喫茶にしょっちゅう行っていた。そこで、いろいろなジャズミュージシャンを知ることになり、そこのマスターと言葉を交わすこともよくあった。記憶では、一階がモダンジャズで地下はジャズボーカル専門のフロアになっていたと思う。
私は地下に行くことはなかったと思うが、その辺りは記憶があいまいだ。
草分け的なこの店には学生を中心に若い人が集まっていて、それから新しいジャズの店が吉祥寺の町に増え始めた。
近年にそのオーナーは亡くなり、残された奥さんが引き継いではいるが、昔の「Funky」の流儀ではない。
もう吉祥寺という町が大きく変わっている。

若い頃には思い入れがあって、ジャズは黒人のものだ、という意識が強かった。ビル・エヴァンスなんかも「きれいな曲だな、うまいし。ふーん」という感じだけで、コルトレーンやモンクやバド・パウエル、エリック・ドルフィーなどが私のヒーローだった。ああ、それにマイルス・デイヴィスね。忘れちゃいかん。ただ、少しお金に余裕のできた頃にはエヴァンスのレコードも聴くようにはなったが。

当時の女性のボーカルでは何と言っても、ジャニス・ジョプリンがすごい人気だった。白人だったが、フィーリングは黒人のブルースシンガーに近いものを感じていた。ジャズではビリー・ホリディ。彼女の書いた「奇妙な果実」という本も注目されていた。はい、昔話は終わり。

この年になってジャズは黒人という思いこみもなくビル・エヴァンスをよく聞くようにもなった。
そして、今の自分の部屋のBGMではエラ・フィッツジェラルドが活躍している。元気がでるからだ。
とりあえずエラで最も有名な曲をYou tubeから。この曲はブレヒトの「三文オペラ」の導入曲のはず。
Mack the knife。エラ・フィッツジェラルド(1917~1996)

汗かきである。最近ずっと聴いているのが、彼女の歌ったコール・ポーターのsong bookだ。コール・ポーターの作ったものには好きな曲が多い。
この中でもAnything goesとToo darn hot、Ev'ry time we say goodbyeの三曲がお気に入り。
そして、彼女がベルリンでやったライブ盤もよく聞いている。How high the moonのスキャットはすごい。

ということで、今、オーディオの脇には黒人ジャズシンガーのCDが積み重なってるというわけだ。ニーナ・シモンやビリー・ホリディも。

もともとジャズの発生はゴスペルからブルースという流れだったはずだ。この辺りの音楽については駒沢敏器の「ミシシッピでは月まで狂っている」という本で読んだ。この本の中で、著者はハワイやアイルランドという辺境エリアの音楽のことを現地で調べていて、面白かった。
音楽もそうだが、少数を見捨ててはいけない。そう思う。

若い頃には太った汗かきのオバサンが楽しそうに歌ってるな、という印象だったが、考えりゃ、今の自分よりは20歳も若い女性の映像だ。ベルリンでのライブでもしきりに発する「Thank you!」という声が若くて可愛い感じだ。
そんなわけで、こんな歌声に包まれながら、また机に向かう。
[PR]

# by wassekuma | 2017-02-18 13:58 | 音楽  

ジョセフィン・ベーカーという踊り子について

短い旅から帰ってきても、テレビのニュースなどを見ると「トランプ案件」が賑やかに伝えられている。
もうこの人はトリックスターとしての立ち位置だけではなく、アメリカの抱えている問題を世界に伝える役割を持っているようだ。そして、それはアメリカにとどまらず、世界を写す鏡のようになっている。ヨーロッパにも波及し、「グローバル」という言葉がばねのように跳ね返っている。マイ国家という形で。

政治権力やメディアの劣化、そういったものがだんだんと笑い話の領域に落ちこんでいく。しかし、その中で厳しい現実が浮かび上がるのも事実だ。

最近、ニュースで見たのだが、バドワイザーのCMでドイツ移民がアメリカで屈指のビールを作ったとアピールするものがあったが、すぐに頭に浮かんだのは、映画監督のビリー・ワイルダーのエピソードだった。ザムエル・ヴィルダーという名のユダヤ人の男がナチスの手から逃れようとアメリカに逃げた。祖母と母親は亡命を拒否して強制収容所で死亡している。

彼は税関を通る時にユダヤ系であることがチェックされたが、許されて管理官から「まあ、いい映画を作れ」と言われたという話が伝わっている。確か、彼の自伝にもあったと思う。その後、「アパートの鍵貸します」などの多くの佳作を作る映画監督になることができた。ドイツからアメリカに移民して成功した人間は多くいる。で、トランプの祖先は?

今日テーマで取り上げるジョセフィン・ベーカーは、その逆でアメリカからフランスに逃げるように渡って成功した黒人女性だ。
ヘミングウェイやフィッツジェラルド、J・ジョイスまでを受け入れていたフランスの1920~30年のことを調べていくうちに、この女性芸人にぶちあたった。文学にはそういった性質がある。何かを調べていくうちに、社会状況やその時代の文化、そして支えていた時代精神を調べたくなる。

ジェセフィン・ベーカーが1920年代のフランスでフランス人やパリを根城にする異国の文化人に注目されていたことは知っていたが、今回いれこんだ契機は、高山文彦のノンフィクション「孤児たちの城」という作品だった。黒人ダンサーとしてパリに登場して多大な富を築いた彼女がビジネスから手を引く際に力を入れたのが個人として世界中の孤児を集めて部族を作ると言うことだった、という事実。12人の子どもを集めた。

「虹の部族」と呼ばれたのは、世界のあちこちから集めた孤児のことだった。日本の孤児も二人入っている。虹のようにいろいろな色で一つの帯をなすというイメージだった。多民族国家のように。日本人のアキオという少年が長男の役割を課せられた。この少年は川崎で親に捨てられた捨て子だった。秋に拾われたから秋雄と名付けられた。ジョセフィンは二人の日本人孤児を澤田美喜から引きとった。

彼女が黒人として生まれて苦労した少女時代は、同じような例を見つけることができる。アメリカの黒人迫害の歴史があるからだ。ジャズのビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドなどとも経歴が類似している。貧困と差別の悲惨な生活の中にあった。
ジョセフィンの少女時代にフィラデルフィアで黒人が多く虐殺される事件があり、その時の体験を心の中に刻印している。
彼女は7歳から働きに出て、親に捨てられたような状況で15歳までに2回の結婚をし破綻している。貧困の中にあって文盲でもあった。踊ることだけが優れていた。

芸人一座に入った彼女は16歳の頃にパリでの興行に参加する。ここでブレイクするわけだが、その時代の彼女のダンスが記録されている。You tubeはこういう時に便利だ。1920年代の映像が見られるのだから。



もうダンスというより見世物だということがわかるだろう。寄り目をするのは得意の芸だったが、この表情もアメリカで培われたものだった。白人に対して、このようなおどけ方で笑わせるということが自分の防衛にもなったと彼女は語っている。わかるような気がする。日本にも、わざと恥をかいて自分を守ろうとし、友人に見抜かれたことを書いた太宰治という作家もいる。道化の精神。

この時期のフランスではアフリカのホッテントット(コイ族)を見世物にするということも舞台で興行していた。
白人文化の中でアフリカの部族や黒人の狂ったような踊りを「見世物」にした。眉をひそめる人々もいたが、ジョセフィンに称賛の声も上がったのだ。これはジャズがフランスに流入したことも大きかった。ジャズの新しさがフランスの客に認められ、チャールストンやジャズに浮かれる人々が増えた。

ヨーロッパの多くの国を回るうちにジョセフィンの名声は上がり続ける。しかし、1930年代を過ぎると、ヒットラーに代表されるユダヤ差別が猛威をふるい黒人も排除され始める。作曲家のジョージ・ガーシュインやアーヴィング・バーリンなどもユダヤ系ということで排除される。

こんな軌跡を経て、ジョセフィンは大きな屋敷に「虹の部族」を住まわせることになるのだ。何か、この話はマイケル・ジャクソンのやったことに類似していると思う。
思えば、彼女自身が実は孤児だったのだ。幼少時代から大人の思惑で虐げられ生きてきた。見世物に甘んじて目を寄せて笑いをとり、狂ったように踊った。彼女は孤独だった。

e0208107_17413044.jpgこれが孤児たちに取り巻かれたジョセフィン・ベーカーの写真だ。観光客がこの屋敷(というか城)に来て見学していった。子どもたちの気持ちは複雑だった。かれらは「見世物」になったのだから。義母と同じように。かれらには幸福とは言えない未来が待っていたのだ。育ててもらったという気持ちもあるが、義母のエゴイズムにも悩まされた。自分の思い通りに子どもを育てようというエゴイズムだった。そして、彼女に自分の子どもはいなかった。

晩年のジョセフィンは惨めなものだった。借金のために全ての資産を売り払った挙句に、住んでいるアパートも追い出される。そして、困窮の中で68歳の生涯を終えた(1906~1975)。最期は、まるで子ども時代の振り出しに戻ったような境遇だった。過去の名声だけが残っていた。最後まで支援しようとしたのはグレース・ケリーだった。あのモナコ王妃になった女優だ。
なぜ、王妃は貧困の老女を支援したのか。慈悲心なのか、どうか。それはわからない。

彼女の晩年は淋しいものだったし、彼女の生誕100年のイベントを行った際には、孤児の中で参加したのは長男のアキオだけだった。その他の子どもたちは参加しなかった。これも、ある家族の歴史の一つなのだ。
彼女は踊りから離れて歌手として活躍した時期がある。シャンソンを歌った。その時にヒットした「私は二つを愛している」というタイトルの歌がある。二つとは故郷のアメリカと生活しているフランスのことだった。

今のアメリカに移民として渡って来た人々にも自分の暮らしてきた国への郷愁はあると思う。
どんなに荒れ果てて廃墟のようになっていても、そこで暮らしていた記憶とともに望郷の念はあるだろう。
そして、その辿りついたアメリカでは、特定の異国を犯罪者集団と色付けをする大統領がいるのだ。実は国家の基盤は移民の多様性で構成されているという認識もない。企業に国外での生産をやめろと言ってはみたが、娘のイヴァンカが経営する会社のブランドの服にはMade in Chinaのタグが付いている。ありゃー。
でも、これは笑えないけどね。
[PR]

# by wassekuma | 2017-02-08 17:41 | 社会  

何を見ても何かを思いだす

タイトルはへミングウェイの短編の題名。新潮社文庫の短編集3に入っている。「蝶々と戦車」という面白い短編も含まれている。

先月末から今月にかけて今年初めての旅に出かけた。
西宮の実家にしばらく滞在し、それから琵琶湖周辺を回るという旅だった。
19歳まで関西で暮らしていた割には、京都や奈良の古寺もよく知らないし、琵琶湖もゆっくりと眺めた記憶もない。

高校生の時に、東京の叔父と従兄妹がやってきて家にいた祖父と一緒に京都を観光した際に、おまけのようについて行った。比叡山に登って琵琶湖を見下ろしたことは覚えている。ハイヤーを借りきって京都の料亭で食事をし比叡山に行ったのだが、それは、滅多に姿を現さない叔父の精いっぱいの親孝行だったのだ、と思う。高校二年生の私は運転手付きの車を一日使うということに驚いていた。その翌年、祖父は亡くなった。

実家では、92歳になる母が「最近のことは時々忘れるけど、昔のことはよく覚えている」と老人定番の前置きをして昔話を繰り広げる。こちらもその領域に入りつつあるのだが、母のように自動小銃を乱射するように話すことはない。記憶が繋がってどんどんエピソードが連射される。

島根の限界集落、中国山脈の山懐にあった町の話。母はそこで26歳まで過ごして結婚した。母の話は柳田国男の「遠野物語」のようだった。
少年時代にほとんど夏休みしか過ごさなかったので、冬の情景は知らなかった。今回初めて知ったのは、大雪に包まれる冬には、村の人たちは狩をしたということだった。猪、ウサギ、雉などを捕って食べていた。そして、毛皮は上着に加工したらしい。夏に行っていたので、そんなファッションも見たことがない。

そうか、冬には山奥では銃声が響いていたのか、と思った。猟銃の事故で亡くなる人もいたし、雪が原因となる事故死もあったということだった。
セミを追っかけたり、蛇を掴んで振り回すという長閑な風景ではない。垂れさがった赤いトマトに齧りつく経験とは違った冬の厳しい風景があったのだった。

人は記憶を蘇生させることで、またその瞬間を生きるのだろうか。~何を見ても何かを思いだす。
母が小学校6年生の時に、皇太子が生まれて辺鄙な村でも提灯行列をしたという話も出た。そんなことには慣れていない村人も行事としてやらねばならなかった。人数も少なくて、しょぼい提灯行列だったらしい。その皇太子が今では生前退位ということを訴えている。時は流れる。

実家から琵琶湖周辺を歩いた。琵琶湖は地域によって気候が違うようで、彦根はとても寒かった。以前に旅をした山形でも同じことを思ったが、水(海)に接した所の気候は厳しいものだ。風も強く吹き、山形の酒田の大火については地元の若い人も知っていた。
寒々とした琵琶湖の写真。これです。
e0208107_10184712.jpgやはりこんな感じなので、観光客は目立たなかった。但し、これはもう慣れた風景だが中国人らしい家族連れなどは見かける。前に山梨の忍野八海に行った時に中国人の観光グループに驚いたが、彼らはどうしてこんなに情報通なのか、と思う。忍野八海で土産を売る店では中国表記が目立った。なぜか、南部鉄のやかんがいっぱい並んでいるのには、思わず笑ったが・・。売れ筋なんだろうな。

いろいろな地方の特徴や流儀を見ていくと「多様性」という言葉に辿りつく。今、かの国で話題になっている言葉ね。認めるとか認めないとかの議論の前に、そもそも人の営みは多様である、という現実がある。
国を同じ価値観で統一していこうというような面倒なことを考える人はいるもんだが、それって窮屈なのだ。

窮屈で思いだすが、彦根城の天守閣に登った時に階段の窮屈さと危険さには驚いた。今までに登った城でもっとも危険を感じた。参りました。三階建ての城だが、階段に複数のスタッフがついていて登り方・降り方を指南する。ほとんど垂直の梯子のような階段。どうするよ、これ。
確かにこれでは敵も天守閣に辿りつくのは難しいだろう。

ということで、昨日まで筋肉痛を引きずっていた。でも、またの機会(春の頃)には立ち寄ってみたいようなところだった。川下りもしたいし。地方には見るべきものが多く点在している。悠然とした自然の中に。
もう城には登らないと思うけどね。
[PR]

# by wassekuma | 2017-02-05 10:44 | 日常  

虚栄の市はどう終わるのか

この数日間ドナルド・トランプの大統領就任式がTVのニュースを賑わしていた。
その中で就任演説の内容についてコメンテーターが様々な意見を述べていた。まだこの現象はしばらく続きそうだ。

就任式に集まった人々は以前のオバマの時と比較して3割ほどだったし、反トランプのデモグループが100もあったとかの報道もあった。反対グループの方が祝賀のグループよりも多く集まった。その反トランプ集会の群衆の前でロバート・デ・ニーロやマイケル・ムーアやマドンナが演説をしていた。
異例づくめの就任式が終わった。

この光景を見ていて、「虚栄の市」という言葉がふと頭に浮かぶ。ディケンズと同時代の作家のウィリアム・サッカレーの小説のタイトルだ。読んだのはもう20年ほど前だが、ディケンズと同じように当時のイギリスの社会の動きが読みとれる小説だった。
この頃のイギリスの小説は読者(大衆)を意識して社会風俗を取り入れて、読者が身近なものとして付き合えるものが多い。ちょうど、アメリカの南北戦争の前の時代のイギリスの風俗。ヴィクトリア女王の支配していた社会を背景としていて、ディケンズもサッカレーもウィルキー・コリンズもなぜか物語の中で「遺産問題」を取り扱っている。

1850年代のイギリスにも、もちろん貧しい人々と富んだ人々の格差は存在した。これは、イギリスに限らず近代化した国、資本と利潤のバランスで富を蓄積することを知った国には存在したし、その前の王侯貴族の時代にも、当然のように格差は存在した。今のアメリカを語る際のキーワードにもなっているが、二分されていたのだ。トランプが「アメリカが二分される」という批判を受けた時に、「そんなことはずっと前からそうだった」とコメントしたのは、間違ってはいないだろう。

アメリカの独立からの歴史を見ても、南北戦争でピークを迎える「二分」までに、国中での戦いがあった。だから合衆国という名前が必要になった。ルーツを辿ると、多国籍国家になったからだ。確かトランプはドイツ系の人だと思う。先に上げたデ・ニーロとマドンナはイタリア系。J・F・ケネディはアイルランド系。
何かそういったDNAを引きずったまま、この国は動いているように見える。

トランプのやったように<敵ー味方>をはっきりさせることを大衆は喜ぶ。しかし、その中で、今度の取り巻きスタッフの中に石油会社や証券会社のトップクラスを準備したことを疑問に思う人は少ない。
仲良しグループの権力構造は、ブッシュ政権の時にチェイニーという石油利権の男を脇に据えたことは記憶していても、そして、工業生産のプロがいない権力であっても、よく見えてはいないのだろう。

汗を流して石油を発掘して貧困のどん底から這いあがってくるという時代にはアメリカンドリームと呼ばれるものがあった。20世紀初頭くらいまでを題材としたこんな映画がある。予告編を紹介する。



好きな俳優のダニエル・ディ・ルイスが主演している映画で、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」という題名。監督はポール・トーマス・アンダーソン。息子と二人で石油の発掘に人生をかけた男の物語だが、ほんとうに大切なものは何かわからないまま大富豪になっていく。スタンダード石油との確執も描くリアルな映画だ。家族経営を目指していく孤独な戦いが続いていく。でも、彼にとっての家族とは何か?
まあ、一言でいえば、「成り金」。大理石と金色が大好きというほどわかりやすくはないが、成り金。
家族を前に押し出していく経営。この映画でも、主人公の息子があのトランプの息子とダブって見える。

このDNAは合衆国の底流としてまだ途切れていない流れなのだろう。
南北戦争の際の南部のスタンスは保護貿易だったし、綿を生産するために綿畑で働く黒人奴隷は必須アイテムだった。北部では新たな工業形態や金融ビジネスが進み始めていた。二つの国があったと言ってよいのではないか。

トランプの就任演説は悲観的であり、さびれた風景のアメリカを強調したけれど、彼の言うGreat Againの行きつく先はまだ見えない。
現実をしっかりと見ようとしない人間の「予言」はあてにはならない。炭坑や工場を意識してヘルメットをかぶって演説しても駄目なのだ。
まあ、E・ヘミングウェイの愛していたミシガン湖周辺の復興をよろしく頼むよ、トランプ。いかさまトランプと揶揄されないように。
[PR]

# by wassekuma | 2017-01-23 14:41 | 社会  

正月・映画の一日

正月気分も抜けて、仕事始めのニュースが流れるようになっている。
もうこの時点では、世の中は普段通りの生活に入っている。

毎年正月には年末に借りてきたDVD(見たかったけれど見られなかった映画)を5、6本借りてくるというのが通例だったが、今年は渋谷のTSUTAYAに出かける気が起きずに、溜め置きのDVD映画を見ることにした。
それに、6日には新宿の映画館で昔の映画を見る予定も立てていた。

6日の午前中には去年の今頃かかっていたアメリカ映画を見て、午後から昔の日本映画を2本見るという予定だった。
20歳頃の学生時代に、一日に9本の映画を見るというバカなことをやった。でも、その本数はそれきりのことだった。ほんとにバカである。前回に書いた名画座の二本立て映画を二つの映画館でハシゴして、夜は池袋の文芸坐(当時)の加藤泰監督特集5本立てを見たのだ。2×2+5=9。

最後の9本目はほとんど口を半開きにして寝ていたのだろうと思う。周りを見てもほとんどの人は寝ていた。
変な時代だったのだ。最初の頃は、隣で野次のようなことをぶつぶつ言っていたオヤジもグーグーと眠っていた。
その時代から見ると、今はスマート過ぎるような映画館だ。ゆったりとした座席で、袖にはペットボトルや紙コップを置けるようなホルダーが付いている。

そんな座席で増村保造の映画を見た。「清作の妻」と「千羽鶴」の二本。「清作の妻」は1965年の作品で、私が15歳の頃の映画だ。未見だったが、この時代に日露戦争を背景とした反戦映画を作っていたことに興味を持った。これも以前に見た彼の戦争映画と同様にモノクロで撮影されている。この「清作の妻」は実際に起きた事件を題材としているようだ。

この映画を見た後に、午前中に見たS・スピルバーグの映画を思い起こした。まだ上映されて一年しかたっていない。余り話題になっていなかったようだが、「ブリッジ・オブ・スパイ」という映画。はい、こんな予告編です。

スピルバーグは「激突」から「ジョーズ」までは得体のしれない「敵」と戦うというサスペンス味のものを撮り、「ジェラシックパーク」を経てからは、「逃げる=解放される」という図式をテーマにしたものを撮っているが、このシリアスな映画は後者の方だろう。捕らわれている状況から解放されるという物語。
この映画も「シンドラーのリスト」と同様に、実際に1957~1960年に起きた出来事を追っている。

アメリカで逮捕されたソ連のスパイ(映画の中では時々ロシアと表現される)とソ連で撃墜されたU2機のパワーズという兵士との交換がベルリンの橋の上で行われるというのがドラマの筋になっている。トム・ハンクスの演じる民間の弁護士は、その交換に東ドイツで逮捕された留学生も含めてシナリオを作る。2対1の交換が実現するかどうかが物語を盛り上げていく。

アメリカで逮捕されたスパイの弁護をトム・ハンクスはひきうけるが、台詞の中で簡単に触れられているローゼンバーグ事件の例のように死刑を望むアメリカ国民は、この弁護士に攻撃を加えていく。ロシアのスパイを弁護するのか、という非難にもなる。彼の家族も反対する。彼の子どももソ連との核戦争の危機を学校で教わっているような環境だ。ソ連は最強の敵だった。そのスパイを弁護士として支援するのか、という父に対する思いがある。

映画を余り語るといけないので、印象に残ったシーンだけを上げておきたい。これは結末とかには関係ない短いシーンだけれど。弁護士がCIAの職員と話しあっているシーンだ。彼は国としては死刑に持って行きたいという姿勢を示す。その会話で弁護士が言った言葉。

自分はアイルランド系で(ドノバンという苗字)、きみは苗字からするとドイツ系だろう。ぼくたちの先祖たちはそれぞれに違う国からやってきている。では、ぼくたちがアメリカ人となりえているのは何によっている?
それはアメリカの憲法に従っているからだ、と弁護士は言う。
そのアメリカの憲法を取り上げ捜査上の錯誤もついて、弁護士は戦っていく。

なぜ、印象に残ったのか。去年のトランプ現象に刺激されて、アメリカの歴史を調べているうちに感じていたことに触れたからだ。

歴史的に見てアメリカは移民大国であり、キリスト教の布教を目的としてハーヴァード大学を設立したような国だ。州を増やしていく過程では、ネイティブアメリカンたちとの闘争があり、ロシアやスペインから州を買い求めるということまでやった国なのだ。そして、メキシコとの戦争で新たな州を獲得した。
みんな移民がやったことだ。ほとんどがヨーロッパからの移民。しかし、このままでは、ヨーロッパ移民の勢力図が変わっていく。やがては50%を切ることになる。

とりあえずメキシコとアメリカの間の長い壁か、と考えたのが、これから受諾宣言する次期大統領だ。
やれやれという感じだ。人差し指と親指で輪っかをつくって眼の前に拡げていく仕種が好きなこの男は、莫大なドルとポピュリズムを融合したら国が強くなると思っているらしい。

この映画が描く60年代は、資本主義対社会主義という構図の東西対立(冷戦)があり、核の脅威があり、ベルリンの壁による東西ドイツ分断の事実があった。それから1989年にベルリンの壁が崩壊し、やがてソ連も1991年に解体された。30年前には誰も想像しなかったようなことが起きた。

今年も世界情勢では予測できないことが起きるだろう。そして、閉塞した状況にあっても、何かを解放していこうという動きも続いて行くと思う。その軋轢が何を生み出すのか…。
そんなことを考えさせる映画だった。
[PR]

# by wassekuma | 2017-01-08 12:19 | 映画  

元日随想・「海を越えた父について」

あけましておめでとうございます。

今朝も冬空は晴れ渡っていて、思えば元日に雨だの雪だのという思い出はない。もちろん、これは自分の見ている狭い空間の話で、地域によっては重い曇り空から途切れることなく雪が舞い降りているところもあるだろう。

子どもの頃に、「一年の計は元旦にあり」という言葉を覚えた。私の父親は、そんな教訓めいたことはほとんど言わない人だったので、おそらく母親だと思う。そして、母はがちがちの家父長制の中で育ったので、祖父からの伝言だろう、と思う。
父親(祖父)が役所から帰ってきたら、子どもたち(6人)が正座して玄関で迎えるというような家庭だったのだ。窮屈な話である。
妹が何か悪さをしたら長女の母が叱られる。管理ができていないことを責められる。内心では反発はあったのだろうが、口を結んで我慢をする。そんなエピソードを幾度か母から聞かされた。

父はまったくその対極にいるような少年時代を過ごした。家父長制も何も父親が不在だったのだ。父は中学に入る時に、松江から離れた兵庫県の西宮の私立中学に入って実家から離れた。放し飼いの状態だ。それから東京の大学に入ったので、松江での生活は短かったと思う。

この二人から私が生まれた訳だが、どのように育ったのか。今はそのなれの果てとして66回目の正月を迎えている。
はっきりしているのは、「窮屈なことは嫌い」ということだった。そして、自分から誰かに窮屈さを強いるのは同じように嫌いだ。
学生時代に中国の作家の魯迅の言葉に触れた時に、深く頷いた。
「主人であろうとして奴婢に接するときに、主人も奴婢と同じように不自由である」という言葉だ。そうか、自分の思いのままに人を動かすことは、それによって自分も縛られるのだ、と思ったのだ。

確か「野草」にあった言葉だと思う。面倒なので調べはしないが。魯迅は、日本に医学生として留学していて、仙台で自国の捕虜が扱われているスライドを見せられて、それに衝撃を受けて帰国した人だ。
そこで、中国を変革しなくて行けないという思いをもって多くの文学作品を残した。そして、辿りついたのが先の言葉ではないか。中国国内の動乱の中で文学に情熱を傾けた。

やっぱり父親に似ているのかな。思ってもいないことを口にするのを嫌っていたし、人間を差別して考えることを嫌っていた。生真面目な人だった。おそらくDNAもあり、父の流儀を自分も持っていると思う。

私が教師とぶつかって公立中学をやめると決めた時も、父は冷静だった。その後に、幸いなことに国立大付属中学の編入試験に合格した時も、父は「よかったな」くらいしか言わずに冷静だった。
その時、私は中学二年生だった。

その父の軌跡をテーマにして小説を2本書いた。大きな要素を占めるのは彼の過酷な戦争体験だった。海を越えて東南アジアの島々を巡っていた。巡ると言えば聞こえはいいが、逃げ回っていたのだ。そのあたりを想像力を使って書いた。自分なりの供養でもあった。

父は「おまえたちはいい時代に生まれたな」とは一言も言わなかったが、周囲の思惑など考えずにやりたいように生きている二十歳代の私を見ていた。父のその時代は生死のかかった戦いの中で過ぎて行ったのだ。国の大義に従って、ただ生きて帰国できることだけを考えていた。

「おれの人生はおつりみたいなもんだ」。そう父が言ったのをしっかり覚えている。その言葉の意味を考え続けた。辿りついたのは、こういうことだった。
戦死した人間は、人生の支払いを終えて店を出るが、自分には幸運なことにまだ「おつり」として使える金が残ったという意味だろうと思った。そして、店の外に出て、残った金の使い方を考える。ある時は無頼派のような金の使い方をした。
それが父の「戦後」だった。

前回に書いたようにアメリカの文学は戦後をどのように捉えたのか、ということに興味を持った。ヘミングウェイもフォークナーも第一次世界大戦を経験している。ヘミングウェイは野戦病院での入院経験を反映させる小説を書いた。

まあ、今年はそんなところから始めていくか、文学修業は。
「一年の計は・・」というほど肩肘を張る気もない。
ゆったりと船に乗って海に漕ぎ出していくか、というような感じだ。航行していたらどんな風景が見えるのだろうか。そう、これも「おつり」みたいなものだ。
父は戦争を潜り抜けて生き延びたという幸運はあったが、老後という「おつり」は残されていなかった。

島々の風景がどうだったのか、飢餓の中で何を考えて時間を過ごしていたのか、その辺を父が存命中に聞いておけばよかったと思う。
しかたなく頭の中で南の島々に打ち寄せる波を思い浮かべる。そして、その島の住民たちの様子を想像する。面白い作業だ。そう思っている。

そんなところで、この一年が始まりました。
今年もよろしく。
[PR]

# by wassekuma | 2017-01-01 18:09 | 日常  

申年が去っていく日に

いよいよ今日で2016年が終わる。
日本の干支でいう「さる年」が去るわけだ。、まあ、語呂合わせに過ぎないのだが、来年は「とり年」なので、「やっぱ、今時は先取りの時代だよ」なんて言葉が飛び交わないことを望む。
個人的には60歳で亡くなった父が申年だったので存命だったら96歳だった。そりゃ、ないわな。

ま、一応明日には新年ということになるのだが、明日は今日の続きと考えればそれだけのことで、軽く考えることもできる。
そうは言いながら、年末の行事、窓ふきや床拭きも終わり、カレンダーの掛け替えや日記の交換、今年書きためたノート・メモ類を整理する。それから、これもルーティンだが、年明けから読んでいく本の準備。今はアメリカ作家の関係本が並ぶ。

今年の日記や記録を見ると、自分の親しかった、あるいは交流した人の死去が多かった。
以前にも書いたが、欠礼の葉書が友人たちからも届く。そういう年回りだった。
友人の兄で今年の正月に一緒に麻雀をした人の死。また、友人の姉で学生時代に彼の実家で交流した人。関西の友人の母親。このお母さんも20歳前後に交流があった。広島在住の叔父も亡くなった。そして、私が前にいた会社の創業者。会社仕事で40年近い付き合いだった。いろいろと衝突もあったのだが。

旅の記録を見ると、今年は16回の旅をしている。佐渡を含めて北に向かった旅が多かった。東京に帰ると、「これも日本だ」と呟くような気持ちになる。余りにも風景が違うし、土地に漂う空気が違うからだ。そして、地域によっては地に足のついた矜持を支えとしているところがある。城下町にその傾向が強い。おそらく、地域共同体のDNAもあるだろう。
しかし、それぞれの地域で若者は都会を目指していなくなり、人口はじわりじわりと減少していく。

もともと「日本は国家としての・・」なんて言葉が出るのは政治家(国会議員etc)の得意芸で、本来の人間は狭い空間の空気と光と食べ物があったら生きていける小さな存在だ。
国家を語る人(頭の中の80%は『国益』)は上滑りの言葉を吐き、苦笑いするしかないような光景を今年も続けていた。客観的に見て、平和な国なんだろうな、日本は。

最近のニュースでも、真珠湾を訪問した首相が、コメントで寛容と和解という言葉で対米関係を表現した。同盟ということも強調した。コメントの全文を読むと、冒頭に打ち寄せる波の音とか海の風景についても触れていて、ポエムな感じだ。でも、波の音なら沖縄でまず聞けよ、と思う。
何千キロも離れた国との和解を高らかに宣言するより、国内での当面の問題、オスプレイの墜落でもめている沖縄とか5年たっても仮設住宅にいる福島の人たちの関係をどうするかだろう。

大体、なぜ日本がアメリカからオスプレイを4機購入する必要があったのか、メディアが追求しているようには見えない(最初は12機購入の予定だった)。その予算は、お祭りの団扇を買ったのが不適切だった、と大臣をやめた議員の使った金とは桁が違う。
団扇を追って、オスプレイは追わず。書道のために中国服を買った前都知事を追って、オリンピック予算のからくりを追わず。挙句の果てに、全面広告を使って解散したSMAPへの感謝の広告記事。

「日本ってけっこう平和じゃね?」という人もいるだろう。
そう、大統領の指示で国民に銃を向けて殺しているようなシリアよりは平和だ。逃げ出すことができなくて、自分たちの知らないような遠い国からの空爆で今でも多くの子どもたちが死んでいる国よりは平和だ。
ありゃ、大晦日には触れたくなかった政治問題にまた触れてしまった。でも、世の中で起きている現実は、来年もしっかり見ておかなきゃな、と思う。

今年の出来事で特に印象に残ったのは「ネット社会」のあり方だった。
自殺した電通の若い社員の呟きが起点となって、捜査機関が動き社長が辞任することになった。ネットの情報が大手メディアを動かした。大手メディアは個人の呟きに遅れを取った形だ。
保育所の問題でも、「日本、死ね」が話題になった。この文章も全て読んでみたけど、理路はしっかりしていて、官僚の書く複文節よりもしっかりと伝わってきた。これも大手メディアが後追いして国会でも問題となった。
この二つの呟きの伝達にはある種の「勇気」が感じられた。多くのメディア産業が失っているものだ。

ネット上で散見する罵詈雑言はほとんど閑で臆病な人間の所為だが、そんな暇つぶしとは違うものを感じたのだ。私が勝手に名付けているのだが、「尻馬ネット」ではない。これからはこういったネットによる情報が社会に大きな影響を与えるだろう。
以前、ジャスミン革命が起きた時にも感じたが、今年は国内でも強く感じた。
今年話題にもなった「パナマ文書」の問題はどうなるのだろう。最近では、ネット網のハッキングということでアメリカとロシアもややこしくなっているし・・。

最後に趣味の話でしめたいと思う。映画ね。
今年の記録を見ると、DVDを含めて64本の映画を見た。含めてと書いたが、映画館で見たのは10本でさほど多くはない。見たいと思う映画が古かったり、数年前のものでも上映館がないのでDVDで見ることになる。

年の瀬には久しぶりに新宿の映画館(角川シネマ)で増村保造監督の映画を2本見ることができた。1本は京マチ子、もう1本は若尾文子の主演。来年の一月まで続くシリーズなので年明けからもあと三回は行くことになるだろう、と計画を立てている。

思い起こせば、学生時代には新宿といえば「テアトル新宿」「新宿西口パレス」「新宿文化」などの映画館があって、よく通ったものだった。監督特集2本立てなどのメニューで、ここで多くの監督の作品を知った。大体料金は、当時のコーヒー1杯の値段。はい、昭和のお話はこれで終わり。

e0208107_13231874.jpgやはり、若尾文子がよかった。ソフトバンクのCMなんかに出ないでほしい。中国での戦線を題材としたリアルな映画だった。「赤い天使」というタイトル。1966年の製作。カラーの映画が当たり前の時代だが、あえてモノクロで撮っている。この映画は野戦病院の看護婦が主人公なので、治療するシーンなんかはカラーではどぎつすぎるからだろう。33歳の若尾文子が熱演している。
この人の映画では、同じ増村監督の撮った「妻は告白する」が印象的だった。もう一つ、溝口健二の撮った「祇園囃子」もよかった。川島雄三の「しとやかな獣」という作品では、また違った役柄を演じている。これも面白かった。
本来なら日本映画史の重要な生き証人の一人のはずなのだ。だめだよ、犬に説教なんかしてちゃ。

これは趣味というのとはちょっと違うが、読書の方は、4人の作家を軸にして読み続けた。来年は引き続いてアメリカのロストジェネレーションと呼ばれた二人の作家をしばらく追って行くつもり。
いろいろとあったけど、今年も健康には恵まれて面白い日々を過ごすことができた。来年もささやかなことを大事にしてやっていきたい。

はい、これで今年のブログは終了です。数少ないと思われる読者のみなさん、一年間ありがとうございました。
それでは、よいお年を。  2016年12月31日/記

最後におまけの映像です。今年のノーベル賞で話題になった人。初々しい頃のディラン。23歳くらいか、大人に混じって・・。司会をしているのは、ディランが尊敬していたフォーク歌手のピート・シーガーだ。
でも、この若者が50年以上を経てノーベル文学賞を受賞なんて誰が予想したのだろう。

[PR]

# by wassekuma | 2016-12-31 12:44 | 日常