10月はたそがれの国

一昨日、誕生日を迎えた。67歳になった。
昨日は60歳で亡くなった父の命日だった。私が30歳の誕生日を越えた翌日に父はこの世から消えた。
ちょうど誕生日の日に友人と父の入院していた神戸の病院に行った。この時期には私は東京からしきりに帰郷していたのだ。父のベッドの横で、今日は自分の誕生日だと友人に話したら、横たわっていた父がこちらに目を向けて指を三本立てた。もう口をきくのも面倒だったのだろう。眼差しで伝わった。息子に対して、おまえは三十歳になった、と示したかったのだ。

あれから37年が過ぎた。今パソコンに向かいながら、このブログは何回目になるのか、とふと思って調べたら、297回になっていた。
ちょうど還暦を過ぎて始めたものだが、カテゴリー別にみると、やはり日常・社会の項目が160回近くで、文学の項目が60回になる。映画が44回。

自分の好みが集中したものだ。そして、今日の題目はカズオ・イシグロについて。
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若い頃の彼の写真。この人の作品は5年ほど前に映画「日の名残り」をDVDで見て、それから原作を読んだのがきっかけだった。この映画はジェームズ・アイヴォリーという監督に興味があったので見た。「眺めのいい部屋」という作品で注目された監督だ。珍しく、原作と映画の両方が好みにあったものだった。ジェームズ・スティーブンスという執事が主人公で、父子二代にわたってイギリスの貴族の館で働いている。このスティーブンスを演じたアンソニー・ホプキンスがいい。時が流れて、彼が女中頭だったケントン(エマ・トンプソン)と再会してから別れるラストシーンは印象に残った。

執事という仕事は冷静に正確に仕事をこなしていくものだ。自らの感情を押し殺して、無表情に仕事進める。多くの決まりごとを淡々と進めるのだが、彼も人間としての感情は持っていて、その心の奥と自分の仕事の流儀の葛藤が秘められていくという仕組みの小説だった。日本人であるという自覚の下に、イギリス社会の物語を書いていくことによって、イシグロは自分の影を作品に投影しているように思えた。

単純に祖国喪失者という見方ではない。著名な小説家で祖国から離れて故郷を書いた例は少なくない。J・ジョイスの「ダブリン市民」をまず思い浮かべるが、母国のアイルランドから遠く離れた異国の地でダブリンを描いた。ナボコフやベケット、そして、クンデラ、カフカなども母国語とは違った言語で表現した。
そして、カズオ・イシグロも日本語で小説を書くことはないだろう。「日の名残り」から彼の作品群を読み進めたけれど、日本を背景にした作品も残している。

この作家に興味を持ったのは、自分と同世代の作家ということもあった。フランスの作家、パトリック・モディアノやアメリカのポール・オ―スターもほぼ同世代。自分と同じ頃に生まれて世界の変動を見てきた作家たちだ。そこで、共通するテイストを感じた。

この作家たちは「記憶」ということにこだわっている。記憶を追い求めること、それが正確なものではなくて、幻想ではないか、という曖昧な領域も含めて描こうとする。自分の記憶を探し求めていく。
P・モディアノなどは主人公が戦前の新聞の写真を見て、その人間を探すという物語まで書いている。なぜ、それほど過去と記憶にこだわるのか。

ぼんやりと思うのだけど、おそらく「何かを伝えたいという願望」が極めて強く、それが書くことに繋がっているのだろう。あの頃の「時代」を隠喩として拡げていく。
それが、単なるノスタルジーに終わるものなら小説にする必要はない。昔はこんな風によかったんだ、というのはわかりやすい嘘だからだ。そんなことをあの頃は感じていなかった。生きていていいか悪いかは今でしか感じるはできない。その今(現在)が記憶として自分の内部に堆積していく。そして、ふと甦ったものを掘り下げていく作業が始まる。何かを見つけるために書いているようなものだ。

結局、ものを書いていくことは、洞窟を歩き回って何かを探していくという行為に似ている。一行先が読めないのだから。自分と同世代の作家のことを考えていたら、そんなことを思った。
そして、この作家たちも自分と同じように「たそがれの国」の住人なのだ。彼らには「たそがれの国」の風景がどのように見えているのだろうか。

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# by wassekuma | 2017-10-14 07:01 | 文学  

言葉の浮遊について

政局の動向が混乱している日々が続いているが、最近になって気になる言葉を耳にした。「愚直」という言葉だ。首相が愚直に政治に取り組むと演説で声をあげていたが、この人の言葉ではないと思ったのだ。

「愚直」を辞書でひいてみると「[性格などが]ばか正直で、臨機応変の処置がとれなかったり、損な役割を負わされやすかったりする様子」と書かれている(@三省堂・新明解国語辞典)。どう考えても今の政治のありようが「愚直」という言葉にはあわないのだ。
自分の好きな分野として、今までに読んだ小説、物語と言ってもよいが、愚直なものとしてあげられるのは次のようなものだ。(今思いつくものとして二人の作家にしぼると)谷崎の「お才と巳之介」、「痴人の愛」「富美子の足」、芥川の「尾生の信」や「仙人」「毛利先生」などである。共通に愚かしさを描いているが、結果的には悲劇的な様相を表わす。「仙人」や「毛利先生」は児童文学なので違う形だが。ほんとに愚かと言ってもよい欲望にとりつかれるという谷崎の図式もある。晩年の「瘋癲老人日記」が集大成かもしれない。

ただ、この言葉の意味には周囲から愚かしく見えても自分のやることをこつこつとやり続けるということを表現するという要素があって、それを政治家は言いたいらしい。違うだろ~。これは、毎日の平凡な生活を繰り返し放り出しもせずに黙々と仕事に向き合うというのを愚直と表現する人間の知恵だ。
だって、頭に愚かという言葉を付けて尊いものだという意識があるのだから。農業や漁業に従事する人たち、あるいは物作りの職人さんたちは毎日同じような仕事を続ける。そんな要領の悪いことをよくしているな、と見ながら紙(紙幣)から紙を生み出す仕事をしている人たちとは一線を画す。

政治がポピュリズムによって揺れ動くという現象が生まれてから相当の時間が経つ。ポピュリズムの鍵となるのは、言葉を決めることだ。躊躇なく言い放った言葉が浮遊する。首相が自分の名前と経済を繋ぎ合わして、メディアもそれをジャーゴン(決まり文句)としてばらまいていく。
なんだかよくわからないままにして、それを増長していくのはSNSという新たな言葉の渦だ。固有の名前を消して、匿名のままそれは渦のように本質を吸いこんでいく。やれやれ、と言うところ。
本来のジャーゴンの意味は失語症の人が発する言語形態のはずだ。

ポピュリズムは人気によって権力を高めていくのだが、それは歴史的にみて何度も繰り返されていることだ。フランス革命の時のロベスピエールとかダントンの人気はすごいものだった。近いところでは、ヒットラーであり、毛沢東であり、スターリンかもしれない。
この権力者に共通なのは排除することだった。排除から生まれるのが熱狂であることは歴史が示している。もちろん、その熱狂の度合いは独裁者の求心力(磁場)に比例するのだけど、この国は求心力よりは同調圧力の方が機能していると思う。はい、日本のことです。
GDPで上位にいる国の中で、日本の特徴は国を攻めとったり逆に攻めとられて違う国名になるようなことを経験していないことだ。アルフォンス・ドーデの小説「最後の授業」のような光景を思い浮かべればいい。学校で自国語ではない言葉で授業をうけるということだ。もちろん、アメリカの影は今でも根強いのだけれど。

イデオロギーが対立軸として機能する状況は変化して、今は宗教を軸とした紛争がある。ただ、全体としてのグローバリズムと名札を付けられた考え方は経済原理を基本にしているので、そこで世界はバランスをとっている状況に見える。

個人的には戦後のグローバリズムの家元は中国だと思っている。領土を見ればわかるし、華僑の存在も第二次世界大戦のあとにじわじわと浸透した。「白猫・黒猫論」から「先富論」までの流れでそうなった。13億も人がいる国なんて面倒だろうな。

そんなことをぼんやり考えていたら、ふと思ったことがある。
動物は寡黙な生き物だな、ということ。最近、セミは騒がなくなって静かだけど、言葉をもたない動物は寡黙の中で生きている。うちの2匹の猫もそうだ。どこにいるのか、と探すことがあるくらいだ。特に妹の猫はよく行方不明になる。

以前、TVで動物のドキュメンタリーを見た時に、子どもを守ろうとする母親が天敵の動物に猛反撃をして撃退する映像があった。相手は、子どもを獲物にすることができずにしょげて帰っていったが、この失敗した動物はおそらくいい訳をすることはない。

政治家の言葉が浮遊する時、それはほとんどがいいわけであり、自分を守るための言葉なのだ。何かを説明しなくていけない、でも、その説明で自分を守らなければならない。説明の稚拙な人はバラエティ番組の餌食になるし、インタビューするメディアも弱みを見せた小物には失礼な言葉を飛ばすことができる。そして、足の着いたような言葉を発する政治家は少ないのが現実だ。

かくして浮遊する言葉が漂うわけだが、人間にとって言葉は大切なものだと思う。沈黙と秤にかけるくらい大事なものだ。霊長類ヒト科の動物だけが持っている貴重な能力なのだから。他にも美術や音楽などの能力はあるが。
誰でも、記憶の中に錘のようにぶら下がる言葉を持っているのではないか。ゆらゆらと揺れるお守りのように。その言葉はそれほど難しいものではないはずだ。

政治家というのは窮屈な職業で、いくつもの顔を持たなくてはいけないということは知っていたが、ダイバーシティ(多様化)という英語を使う政治家が今は排除という日本語を使う。言葉が空の彼方に飛んでいくような風景が見える。

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# by wassekuma | 2017-10-05 10:05 | 日常  

ぬりかべを見てふと思ったこと。

秋の恒例となった出雲への墓参をしてきた。
家族6人での旅となる。出雲市駅から離れて日本海に向かっていった海沿いの日御碕というところに墓がある。むりやり言うと、海辺のリゾートタウン。
東京から遠い。昔は山陰本線で出雲まで行っていたが、今はサンライズという列車しか出雲には届かない。昔の「だいせん」という急行も、確か今では米子が終点のはずだ。

で、今回も空路を使って出雲に行き、そこで関西組(母と長男夫婦)と合流することになった。東京組は、私たちと次男の三人。出雲の宿で合流することになっている。
出雲という町は年々賑やかになっていくような気がする。出雲大社が観光の目玉となっているのかもしれない。縁結び、ね。あとは、さほど大したものもない。出雲大社からバスで20分ほどの日御碕も観光客が激減しているようだ。
以前行った時に、海に面した宿の人が、夏休みの団体(教職員や役所の人が多かったらしい)が激減したと言っていた。予算削減なのかな。そして、子どもにとっても海遊びには危ない場所だ。厳しい岩場の続く海水浴場なのだから。私も過去に二度ほど足を岩の角で切ったことがあるし、息子も怪我をしたことがある。
東洋一の灯台の高さを誇っていたが、今はどうなのか。まあ、高いからといっても一度登れば十分だろう。

還暦を過ぎた年に亡くなった父は、墓参の時に、目の前に拡がる海を眺めて、両手を腰に当てながら言った。
「こんな風景の中にある墓はいい。墓から海を見下ろすというのがいいな」と、こちらの方に顔を向けて同意を求めた。私は、こんな辺鄙なところは面倒くさいぜ、と腹の中で呟いていた。
父が亡くなった後には、あんなことを言ってたから早く墓の下に入ったんじゃないか、とぼんやりと思った。

93歳になる老母を、小さな山の上にある墓まで連れて行く。父の享年と足すと153歳になり平均すると当時の平均寿命だろう。母は54歳で寡婦となり、それから40年が過ぎた。父の得るべきはずの寿命の残をしっかり回収している。
父が一度も受け取れなかった年金を遺族年金(父の半額)としてずっと受け取っている。生物としても不思議な強さだ。生命力も支配する力もメスのほうが強いのは動物を扱ったドキュメンタリーで見ることが多い。

その母も墓参の旅が楽しかったと電話で告げてきた。そう、結局は墓に向かうのも生きている人間であり、その人間たちが元気に楽しんでやっていれば、それが供養というものだろう。以前、墓参りなんか行かなくても、ふっと亡くなった人のことを思い出せば、それが供養だろう、墓なんてただの石だ、と私が言うと、母はあんたはほんとにおじいさんに似ている、と言い返した。父方の祖父である。親戚筋からは変人として有名だった。

そんな記憶をいろいろと巡らせながら、うちの相方と一緒に米子・弓ヶ浜にある皆生に一泊して境港に向かった。しかし、皆生(かいけ)という名称も不思議だ。みんなが生きるという名前。死者たちに挨拶したあとには、みんなで生きる、という感じになる。
境港市は漁業の町だ。初めて訪れたのだが、やはり「鬼太郎」一色の町並みだった。到るところに鬼太郎だ。さまざまな妖怪のブロンズ像が道路に並んでいる。それほどの水木しげるファンでもないのだけど、息子たちが幼かった頃に、「鬼太郎妖怪図鑑」を欲しいと言ったので買ってきて、その中の妖怪を画用紙に何枚かクレパスで描いて見せたことがあった。何か車のお化け(名前は忘れた)とか、砂かけ婆とこなき爺など、何枚かを描いた。かなり丁寧に描いた。
二人の息子は、「へー、すごい!」とは言ったが、すぐにどこかに放り出していた。そんなものである。

今回はせっかく来たのだからと、駅前で「妖怪ガイドブック」を買った。町歩きをしながらスタンプを押していくというものだ。153体もあるブロンズ像のスタンプだ。こんな面倒なことはやるわけはない。
鬼太郎シリーズで気になるのは、これ。ぬりかべ。
e0208107_11163935.pngこれは、模写するのに一番楽だったので、すぐに描けた。そして、知識がなかったのでただ懸命に壁を塗っている妖怪だと思っていたのだ。いいな、意味もなく壁を塗る化け物、可愛いじゃないかと思った。いや、ずっと思っていたのだ。旅の土産にするなら「一反木綿」か、この「ぬりかべ」だろうと考えていたのだが、帰京して調べてみたら、「ぬりかべ」は人の通行を壁になって妨げるものだとわかった。でも考えて見ると、何かやりたいことがあっても妨げる何かが現れることはよくあることだ。それが、こんなシンプルな姿で現れる。人はいくつの「ぬりかべ」と戦っていくのか。このコンセプトは面白い。妨げる何かを、いつも誰かが排除してくれる、こんな環境の人間には「ぬりかべ」は見えない。

私は、今までにいったいいくつの「ぬりかべ」に出会ってきたのだろうか。きっとこの妖怪に気づかないことも多かったと思う。でも、直感的に可愛いと思った化け物だが、きっとこれは苦労を与えることで子どもたちを成長させるという狙いもあるからだろうな。壁にぶつからない子どもや大人は何かが止まってしまう。そう思う。
おそらく、人間は生きている限りは変化できるように造られているのだから。老いも若きも鬼太郎シリーズの妖怪に似たキャラクターはあると思うが、150円で買ったガイドブックを見て、それを愉しんでいる。

そして、今は、部屋の譜面台にぶら下げられた「ぬりかべ」のキャラクターグッズが、窓を開けたので吹き込んでくる朝の風にふーらふらと揺れているのだ。
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# by wassekuma | 2017-09-27 11:27 | 日常  

トーマス・マンを読んでいると・・

ふーっ、ようやく応募原稿の区切りがついた。昨日ポストに投函。ちかれたよ。
今年はこれまでに小説を3本と評論を1本書いているが、今後の作物としては年内に2本を準備している。
最近は自分の書いたものを作物と呼ぶようになっている。農耕に似たものを感じているし、自分の作ったものが、ゆがんだキュウリであったり、いびつな梨かもしれないという気持ちがある。ただ、水をやったり、様子を見たりするところは農業に似ていると思う。こつこつ、とね。しかし、産地直売の店は準備されていない。

原稿を書いている時には、なぜか長編小説を併せて読むようになったのは去年くらいからだ。良いのか悪いのかはわからない。今回は「魔の山」。きっかけは、「闘う文豪とナチスドイツ」@池内紀という新書を読んだことだった。昔は、トーマス・マンは短編をいくつか読んだが、「魔の山」は途中で放り出した。

今回は原稿に向かいながら読んでいた。武田泰淳の「富士」も思い重ねながら。どちらも、閉鎖された空間で起きる出来事を描いている長編だ。「魔の山」はベルクホーフという名の結核の国際サナトリウム(高級な療養所)、「富士」は精神疾患者の病棟を描く。
「魔の山」は、ハンス・カストルプという青年が主人公でいろいろな国の患者と交流するのだが、そこはやはりドイツの作家だ。観念的なこと、例えば時間の問題、人間の尊厳などを延々と議論したりする。若い頃は、これが面倒臭かったのだろう。「トニオ・クレーゲル」や「ヴェニスに死す」などの読みやすさはない。

e0208107_1193946.pngこんな感じの作家なのだが、いかにも硬い。気易くお友達のようには話せないだろう。この作家がナチスドイツから追放されてヨーロッパを転々としてアメリカに辿りつくということになる。ドイツ政府はこのノーベル賞作家を締め出したのだ。
ヒットラーのやることに批判的であった。作曲家のワーグナーを政治利用することについても批判した。ワーグナーをヒットラーが称賛したことは有名だし、国民の熱狂を生み出すために、この音楽家を全面に出している。マンはミュンヘンで「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」というタイトルの講演をした後に、海外に行って、そのままドイツ国内への帰国差し止めになった。それから十数年にわたる亡命生活だった。

そのような生活でも書き続けた人だ。80歳で亡くなるまで日記も含めて書き続けた。日記も膨大な量だが、今では邦訳されて出版されている。まるで、永井荷風のようだ。ナチスドイツがどのような軌跡を辿ったかが作家の眼で描かれているようだ(未読)。この日記の内容については池内紀の本に引用されている。

最近、日本の政治でまた新たなジャーゴンとして「総理の専権事項」という言葉が拡がっている。衆議院の解散総選挙のことだ。自らの言葉で話していくことをせずに、既成の事実を隠すために使われた「忖度」の次は「専権事項」になった。
臨時国会を開いて、すぐに解散を決定するということが起きれば、おそらく戦後の政治史の中で際立った茶番劇だということは、ある程度の知恵があればわかるはずなのにな。まあ、知恵と偏差値は連動しないことはいろいろと判っているのだけど。とりあえず、立法府としての議案の討議よりも選挙を専権として選んだ。

文学はとどのつまり虚構の連続だが、本質において社会の鏡ともなるし炭坑の入り口前のカナリアにもなるという歴史がある。その作業で大きな要素として想像力があり、ものを書く人間は想像を駆使してどのように書いても自由だ。最低、読者は一人はいる。まず、最初の読者は自分なのだから。

だから、自分の空想の中で、こんなことも浮かび上がる。国連でのトランプは想定された演説をしたが、日本の専権首相は、それに明確に準拠した演説を行った。それを世界に発信した。彼の目の前には、ミサイルを花火のように打ち上げる国の人間が座っていた。総選挙の日に、J・アラートがなるような日程を組むことはできる。なんせ、花火の打ち上げのタイミングに目の色が変わっているような国なのだ。

トーマス・マンは「魔の山」のまえおきで興味深いことを書いている。この物語は大昔のことで、すっかり歴史の錆に覆われているが、それは物語にとって不利なことではなくて、むしろ有利なことだと書いているのだ。
彼は第一次世界大戦のことを意識していると思う。ヨーロッパが戦火にまみれて自国のドイツが敗戦の大きな痛手を負ったこと。そして、この長編小説にも主人公のいとこ(ヨーアヒムという名の青年)が登場するが、結核が治ったら戦地に向かうという状況が設定されている。
いつの世も戦地に向かうのは若者だ。1924年に書かれた小説だが、彼はドイツがまた戦争の火種になることを予感していたのだと思う。

まえおきの中でこういうことも書いている。物語の描写が細かくて綿密すぎるというそしりも恐れずに、徹底的なものこそほんとうにおもしろいのだという考えに賛成したい、と。ゲルマン魂か?
これから図書館に予約した「日記」を読むのが愉しみである。やっぱり細かくて綿密なんだろうな。
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# by wassekuma | 2017-09-21 12:00 | 文学  

映画館の風景 2017年夏

今月は映画館で映画を見る予定が多くなっている。
映画はDVDで見る場合がほとんどで、直接映画館で見る機会は少ない。本来はあの暗いスペースの中で見るのが筋だとは思うが、見たい映画がかかっていないので仕方なくDVDで見る。

本の世界と一緒で、読みたい本が古本屋にしかない場合が多くなっている。
結局は自分が流行りものとは違うものを追いかけているんだな、と思う。最近の映画の上映コマーシャルを見ても、ゲームソフトのPRフィルムと混同してしまうようなものがあって、興味がわかない。
映画の製作技術がCGなどの駆使によって、映画の画面の中でCGが生きるように映画がつくられる。カメラや美術や小道具などの職人技は、もう稀薄な世界になっているのだろう。
例えば、成瀬巳喜男の「浮雲」のセットで腕を見せた中古智のような仕事はもう注目されない。あの焼跡闇市の新宿の風景はよく作ったものだ、と思う。これも古い映画。

というようなわけで、今年になって見た映画は35本あるけど、映画館で見たのは、そのうち14本しかない。
今月は日本映画@神保町シアターとアメリカのフィルムノワール特集@シネマヴェーラで5回ほど見ることになっている。どれも古い映画である。戦前戦後という時期のものばかりだ。

映画を見た記憶は五歳頃から始まっている。
尼崎の武庫川という駅の近くに住んでいて、父親が日曜日になると駅前の映画館に連れて行ってくれた。東映の映画常設館だった。今では考えられないことだが、10日に2本くらいのペースで東映は新作映画を作っていた。錦之助・千代介が若手男優のツートップという時代。大御所としては片岡千恵蔵・市川右太衛門、大友柳太朗などがいた。誰やねん、それ、という人が多いと思う。

まあ、そんな人たちに毎週のようにスクリーンで会っていたわけだ。時代劇ばかりで、映画が終わると観客が拍手をした。時々、声をあげて野次を飛ばすおやじもいた。上映中に煎餅を齧る人、酒を飲む人、居眠りをしていびきをかいている人、そんな人たちの風景が闇の中で見かけられたのは、私が映画館で目を凝らして映画を見ていた昭和の時代にはあったと思う。

今はほんとにクリーンでスマートな小屋になっている。上映中の注意事項もアナウンスされて、みんなも静かに従ってマナーを守ろうとする。昔のように、映画の役者(悪役)に対して、「うそ言ってんじゃねえよ、おまえ」とか声をかける人は排除されるのだろうか。面白いと思うんだけど。

今回のアメリカ映画はフリッツ・ラングとニコラス・レイという二人の監督が目当てだった。複数の映画を見たが、ラングの「飾り窓の女」とレイの「危険な場所で」が突出していたように思う。
ラングは彼の映画の中で最初に注目を浴びた「M」という映画で注目して彼の作品をいろいろと見ていた。
e0208107_12181139.pngこんな監督だ。片眼鏡がトレードマークで晩年には黒い眼帯をしている。名前でわかるようにドイツ出身の監督でユダヤ人だった。ナチスドイツから逃亡してハリウッドに辿りついた。ビリー・ワイルダーと同じような軌跡だ。この「飾り窓の女」は初見だったが、映画が終わった時に、スイスのダニエル・シュミット監督の「ラ・パロマ」を連想した。もちろん作風は違うけど、ラングの影響をシュミットは受けてるんだなと思った。
映画に限らず、音楽や美術でも引き継がれるDNAはある。それが芸術の分野の特性だろう。「ラ・パロマ」は1974年の映画だからシュミットの亡くなる2年前だ。彼は「ラ・パロマ」を見たのだろうか。この「飾り窓の女」は個性派俳優で注目を浴びたエドワード・G・ロビンソンが主人公を演じている。

もう一人の監督。ニコラス・レイ。この人もラングと同様に70年代のフランスのヌーヴェルヴァーグに影響を与えた。ゴダールやトリュフォーも影響を受けている。なんの符合か、ラングと同様に晩年は片目に黒い眼帯をしている。そう言えば、ジョン・フォードも眼帯。なんで?カメラを覗きすぎて目が悪くなるのだろうか。

e0208107_1365541.pngこの監督は「大砂塵」や「理由なき反抗」で知られているけど、その前には犯罪物を扱ったフィルムノワールで活躍していた。犯罪物がアメリカ映画の得意技であった時代の監督。カメラも白黒映画の特性を生かして光と影のはっきりとした映像を作っている。ヒロインの顔にスポットライトを当てて美しさを演出する技法はこの頃に磨かれたのではないか。
とにかくこの監督は多くのトラブルを起こしているようだ。風貌を見ても危ないものを感じる。

映画館でこの映画を見ているのは、ほとんどが私と同世代で映画青年のなれの果てという感じだった。40年も前の記憶をなぞりながら、色のつかない白黒の黴臭いような画面を見つめている。

昔の小屋の雰囲気とは違って、トイレもきれいだし臭いもない。そして、昔のように前の椅子に座高の高い人が座って字幕が見え辛いというようなこともない。座り心地のよい椅子に座って見ることができる。椅子の脇にはペットボトルがおけるようなポケットもついている。気がきいている。でも、「館内での飲食はご遠慮ください」というアナウンスは流れる。時代なのだ。

穏やかな規制があって、みんなは黙って、そう、まるで有名なラーメン屋のラーメンの味を黙って味わうようにして映画を見る。今回の同世代の人たちも、そして私も、ユーモラスなシーンには微かな笑い声をあげるが、昔のように手を叩いて大笑いする観客はいない。
お祭りに参加するような気分や、闇の中で美しい女優をみて憧れるという新鮮さは、もう遠くなった風景なのだろう。
思えば、最も古い記憶の東映映画はほとんど全てがハッピーエンドであり、最後に拍手する際にも「お約束」的な感じがあった。おそらく明るい行き先が見えているように思える時代だったのだろう。
今考えれば変な映画もあった。チャンバラの戦いが終わって、ヒーローが勝利すると、そのエンディングの際に、どこにいたのか多くの着物姿の女性が出てきて音楽に合わせて踊るのだ@旗本退屈男。観客も手拍子で応えた。

渋谷と神保町の二つの映画館の話をしたが、このような映画館はまだ他にもあって頑張っていろいろなプログラムを提供してくれている。そして、老人介護のような空気の中で映画館を守っている若いスタッフの人たちには感謝するし、これもまた高齢化時代の新しい映画館の風景なのだ。そう思った。
「お忘れ物にはご注意ください。最近お忘れ物が多くなっております」。これが最後のアナウンスだった。
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# by wassekuma | 2017-08-16 12:31 | 映画  

夏空の下、木曽路を歩く

暑い日が続いている。明日には台風が東京にもやってくるようだ。
7月末に木曽路を旅した。
木曽路はすべて山の中である、と島崎藤村は「夜明け前」の書き出しに置いた。「夜明け前」を読んだのは、これもまた二十歳すぎの昔話になる。滝沢修が主人公の青山半蔵を演じた映画も見た。確か監督は吉村公三郎だった。
藤村には「家」という作品もあるが、家父長制の中で日本の近代化を受け入れていく流れを描いたものを遺した。時代の波に揺れる人々のありようが表現される。人より「家」が重視された時代だ。
そして、近代化が進むと「家」より「国家」が重視される。国益という言葉が金看板のようになった。

今回の旅は、馬籠~妻籠~奈良井宿という三か所の宿場を回るのが主目的だった。そして、渋温泉。
すでに情報として知っていたが外国人に人気のあるルートだ。ビルの林立する街ではなく、山の中で100年単位の生活が風景として感じられるところを選ぶということになるのだろう。
先年、吉野山に行った時にも外国人の多さに驚いた記憶がある。

e0208107_9424248.jpgこれは奈良井宿の風景だが、寄ってみたい店があった。木工やからくり人形を作っている職人さんの店だった。飛騨の職人もそうだが、雪深い地方では木工が発達して、何か愉しむようにからくり人形を作ったりする。材料の木には事欠かない。なんせ、「山の中」である。店に入ると、私と同世代の女性がいて、木彫をしていた夫が数年前に亡くなったと言う。だから、ここは作品展示室にして商品としては置いていない、という話だった。

夫が40年をかけて作ったものを記念として残しておきたいのだろう。商品にすると、目の前から消えてしまう。黙々と木を彫り続けた夫だったが、何かアイデアが湧くと生きいきとして作品を作り上げた。サラリーマンの仕事を一年でやめて独自の手法で木に向かっていったということだ。「藤屋」という屋号の店だ。

旅をしていると風景との交流や発見だけではなく、その地域の人々との一期一会に近い関わりができるし、現場ならではの話や、知識を得ることができる。それが面白い。
奈良井宿の喫茶店でも、店の主人が、降嫁する皇女和宮の一行がこの街道を通って江戸を目指して歩いて行ったという話を熱く語った。東海道は大井川などの大きな河川があるので避けたという話だ。
こんな山の中を歩いて行ったのか、大変な旅だったろうな。

馬籠では、フランス人の夫婦と一瞬だが交流した。奥さんの話では、通りの脇道に入っていったら、田圃の向こうに子熊が二頭見えたと言うことだった。興奮して案内所に来てそれを伝えようとしている。そして、なぜか猿はどこに生息しているのか、と訊いていた。こちらは、子熊がいるということは親もいるんだよ、と、ちょっと緊張した。
案内所の看板には「熊に注意」という意味の英語が赤い文字で書かれていた。
山の中での出来事である。地元のかぼちゃで生でも食べられるものがあることも知った。話してくれたおやじはかぼちゃには余り興味がないようで、蜂の巣を軒下から取り除くことに熱くなっていた。若い人が長い脚立を持って行って、それに昇って蜂の巣をとった。

夏空の下で、いろいろな人が時間を過ごしている。名前もわからないような樹々に覆われた山の中で生活を営んでいる。今回の旅は、ほんとうによく歩いた。暑い中を・・。
最後におまけの写真を付ける。
e0208107_10115434.jpg友人のサイトから見つけたのだけど、この水まきの写真が気にいった。割烹着を着ている女性の表情がとてもいい。明るく笑っていて、豪快な様子は、負けるか、こんな暑さに、という雰囲気もある。そして、周囲の風景に見える木の板塀は、もう余り見かけないものだ。まかれた水の放物線も美しい。昭和の匂いのする写真だが、こんな原始的な野性味のある光景はもう見ることはできない。便利さ、進化という流れが反・進化を押しつぶしていく。

人間はどこまで「進化」し続けていくのだろう。経済発展がなければ何も始まらないようなことを誰が考えたのだろう。ふと、そう思う。
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# by wassekuma | 2017-08-07 10:38 | 日常  

「富士日記」を読みながら

明日からまた関西の方に向かう。夙川にある実家に寄り、老母との時間を過ごし、翌日は神戸の三宮で中学の同窓会に参加する。

旅のお伴になる本は「富士日記」だ。これで、三回ほど読んでいる日記。武田百合子の書いた本。
武田百合子は武田泰淳の妻で、学生時代にのめり込んでいた作家の泰淳を通して彼女の存在を知った。
神保町の「らんぼう」というバーで知り合って二人は結婚する。この店は出版社のオーナーが経営していて、戦後間もない時期に作家のグループがたむろしていたという店だった。

そこで百合子はウエイトレスとして働いていた。そして、付き合い始めた泰淳が「もの喰う女」という作品に彼女を投影して結実させる。1948年のことだ。戦後の日本の人々のエネルギッシュな様子を描いたものとして、石川淳の「焼跡のイエス」とこの小説は、私にとって代表的な二作品だった。

もちろん、その他の流儀の作家たちは活発に動いていて、第一次戦後派とか無頼派という意匠を受けて次々と作品を書いていた。この作家たちの中には、島尾敏雄もいたが、今回の文章では触れない。
武田百合子に焦点をあてる。「富士日記」を軸として。

日本の文学史で日記文学は長い歴史を持つし、近代以降において思い浮かぶだけでも、荷風の「断腸亭日乗」や、大仏次郎、高見順の戦後の日記、古川ロッパ、徳川夢声などの長い日記、山田風太郎の戦前からの日記、それぞれが文学史的な意味を持っている。先の島尾も「死の棘日記」として残している。

武田百合子は「富士日記」で評価を得たが、それ以外にもロシアエリアの旅を描いた「犬が星見た ロシア旅行」という作品もある。読んでいくとわかるのは、この人は根っからの「見る人」だということだ。
目の前の事象をよく見ていて、それから吐きだす言葉は直截で飾りがない。直感だけで書いているという気がする。その直感を最もよくあらわしているのは前にも触れたが「枇杷」という文章だと思う。

この事実は富士の山荘での記述にある。昭和45年6月29日の日記に書かれている。
この山荘は赤坂のアパートに住んでいた武田の家族が河口湖の近くに別荘として求めたもので、しょっちゅう百合子が車を運転してやってきていた(夫の泰淳は運転ができない)。そこで、日記でもつけたらと勧めたのは夫だった。彼女は最初はためらっていたが、家計簿の延長のように書き始める。これが上下二冊の本になり文学賞(田村俊子賞)まで受けるとは思ってもいなかっただろう。

6月29日の記述に戻る。日常を克明に書くので、車で出かけて鮭ちらし弁当200円、サンドイッチ200円などを買い求め、談合坂で車に給油する。バッテリーも一本買って、計2250円。ささいな日常だ。
小屋に帰ると、野ばらが咲いている。松葉ぼたんは満開。昼は二人で茄子とねぎと卵の入ったすいとんを食べる。二人でよくすいとんを食べている。
それから食後に枇杷を食べる。この文章は三行ほどの短い記述だ。この短い文章で「おいしい」という言葉を百合子は二回使っている。夫がゆっくりと二個食べるうちに彼女は八個食べる。そのあとに二人は昼寝する。家の小窓から樹の匂いが漂ってくる。かっこうが啼いている。
この三行ほどの記録を、泰淳が亡くなったあとに思い出として書いているのが「枇杷」だ。

この文章も長いものではない。数分で読み終える。しかし、日記との大きな違いはもういなくなった泰淳を思い出して書いた部分だ。「枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。知らなかった」と彼は言う。肉が好きで果物を普段は自分から食べたがらない夫だった。それから百合子の「見る人」の眼が追いかけていく。少し震える指で口に入れ、歯がないので枇杷を歯茎でもごもごと食べる様子。それから徹夜の疲れもあって長椅子に横臥したまま眠っていく夫。

私が感心したのは、枇杷食べる手、そして横たわった泰淳が腹の上に組んでいる手の描写だった。
その手を見て百合子は書く。~もの書きというより、篤実な農夫か、田舎寺の坊様の手かもしれない~と。
泰淳に対しての作家論はいろいろとあるが、このような文章で直感的に表現したものはない。
手の描写で彼の作風を簡潔に言い表している。そして、文章の最後にはしっかりと夫が二個、自分が八個食べたことも忘れずに書いている。おそらく泰淳は、よく喰うなあ、と見ていたのではないか。

日記を読むと、泰淳はこの枇杷以外にも「みょうが」の味にも、こんなにうまいものだったんだ、という感想を言っている箇所がある。ささやかで、一見つまらなく思えるような日常、富士山麓での生活が貴重なものであったことが分かる。もう余り話題にもならない作家かもしれないがこんな夫婦だった。
e0208107_12132167.jpg百合子の抱いている猫、タマという名の猫は泰淳の死後も長生きして19歳で亡くなった。「日々雑記」という百合子のエッセイの中で彼女はこの猫の死も描いているが、独特のユーモアを含めて描写しながら哀切なものも伝わってくるいい文章だ。この人の「遊覧日記」という作品で、泰淳の亡くなった後に浅草を一人歩きしていた彼女が、花屋敷に行って仕事をさぼっていると思われるサラリーマンがジェットコースターに一人で乗っているのを目撃する。怖がっている様子を観察する。平日の昼間にジェットコースターに乗ろうと思ったサラリーマンは謎だ。しかし、その描写にはやはり「見る人」の眼差しを感じる。これも魅力的な文章だった。

もうこの二人はいなくなっているが、20歳代の自分を思い出すと、町歩きのことやいろいろな考え方に影響を与えられたな、と、この年になって思う。
今でも、こんなうまいものがあったのか、と思えるし、こんな風景は見たことがないな、と眼をみはる。そして、町歩きの際には、あの人は何をしてるんだろう、と視線を投げることもある。
泰淳が枇杷を発見したように、何かを見つけた時に、言葉を発せる相手がいるということ。百合子は無意識のうちにそのことを知っていたと思う。ささやかでつまらないことをちゃんと「見る人」だったのだ。そして、見たものを自分の感性で「受けとめる人」でもあった。
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# by wassekuma | 2017-07-13 12:31 | 文学  

アンジェイ・ワイダの遺作を見に行った@神保町

都議会選挙の騒ぎがあって、将棋の藤井聡太さん(なぜか14歳の少年がテレビでは「さん」づけ)の30連勝が駄目だったというニュースが重なった日曜日が過ぎた後に、神保町の映画館に向かった。

それにしても自民党は見事な惨敗だった。既存数だった議席を30以上減らしたのだから。選挙戦の最終日に秋葉原で首相が演説して、これがまたニュースネタとしては大きな要素となった。
ネット画像で石原某が「それでは、拍手をもってお間抜けください」とか言っちゃうし、一国の首相が「あんな人たちに負けるわけはいかない」と大声を発した。
少し前には感情的になっていたことを反省すると言っていた人だ。サッカーの応援団や野球の応援じゃないんだからさ。いや、スポーツの応援の方が勝負にこだわりながらもフェアな応援をしてるか。

そんな風景を尻目に見て、岩波ホールに向かったのは、ポーランドの監督のアンジェイ・ワイダの遺作がかかっていたからだ。

ワイダは昨年90歳の生涯を閉じた。昨年に完成した「残像」というタイトルの映画。

e0208107_1783990.jpg晩年のワイダの写真。この監督の作品群にはまったのは、もう40年ほど前のことだ(またまた古い話になるが)。
最初に見たのは「灰とダイアモンド」だった。1970年代にはワイダ以外にも活躍している映画監督が多かった。「パサジェルカ」を製作中に亡くなったアンジェイ・ムンク、「夜行列車」「影」のイェージー・カヴァレロヴィッチ、「水の中のナイフ」を作り、やがてアメリカに渡ったロマン・ポランスキーなどだ。この監督たちは第二次世界大戦の記憶を投影した映画を多く作った。モノクロで光と影を表現する手法だった。

現代で受けるか、と言えばおそらく受けない。ノスタルジーとして見られるかもしれないが。ムンクの「パサジェルカ」などは強制収容所の女看守とそこに収容されていたユダヤ女が、戦後に同じ船の客として再会するところを描こうとしている。

ポーランドは、戦中はナチスドイツに蹂躙され、戦後はソ連に強権的に支配された国だ。ちょうど1968年にチェコがソ連に反旗を翻しチェコ動乱と呼ばれる騒ぎがあった。それから12年たってポーランド革命が起きる。東欧が自立を試みていく時期にポーランド映画がインパクトを持った。

ワイダは「地下水道」などのレジスタンス映画を作って監督の仕事を始めたが、その後も頑固に同じようなテーマを追い続けた。時代は変わっても、彼の流儀を変えることはなかった。多くの観客が拍手喝采するような映画ではなく、最後の作品もソ連の抑圧に耐えながら生涯を終えた実在の画家をテーマとしている。


ストゥシェミンスキ(覚えにくい名前!)という実在の画家の晩年を描いている。この画家は、政府の方針(ソ連の方針)に従って、政府の要求するような絵画を創作しろと言われるが、「自分に従う」ということを言って抵抗する。そこから彼に対する迫害が始まる。そして、彼は経済的な困窮のうちに死を迎えることになる。

このタイトル「残像」にはワイダのメッセージが隠されていると思う。実際に目にしているものと、それから眼をそむけた時に生じる残像。それを補完する想像力。おそらくワイダにとって遺作で描いたこの時代は、ほんの一瞬前に見た風景なのだ。
今の時代においても既視感のある風景が拡がっていないか。

ヨーロッパの小さな国に90歳になってもこんな情熱をもった映画人がいたことに、ある種の感銘を受けた。
そんな映画だった。
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# by wassekuma | 2017-07-05 17:52 | 映画  

スペインから帰ってきた

スペインから帰ってもう一週間は経つのだが、まだ体内時計?がずれているような時がある。
時差ボケというのとはちょっと違うのかな。とりあえず無事に旅から帰ってきました。

しかし、暑いところをよく歩きまわったなあ。初めてのスペインだったけど、昼夜の区別に体が迷ったような感じだった。午後10時近くの頃に夕焼けを見て、それまでは明るい通りを人々が歩いている。
行ってみてわかったが、彼らのシェスタ(2~3時間の昼休み)は生活のリズムとして必要なんだな、と思った。のんびりとした国民性、文化だと羨ましかったが、それとは違うわけだ。

今回の旅で印象に残っているのはシェスタの時間帯の町の風景だった。人が出歩いていなくて、ゴーストタウンのような町並みを歩くことがあった。しんとした夏の光の中で白い壁を並べている家が続く。
写真もたくさん撮ったが、名所(例えば世界遺産)と言われるところと同じように名もない村の風景がよかった。コルドバからトレドに向かう途中に寄った村では、昼寝の時間帯に道にでて椅子に座って休んでいる老人がいて、ここで暮らしている人の風景が見える。老人がこちらの方を見て目が合ったが、相手は関心も示さずに黙っている。

東北を旅するときにも感じる無人の風景。あるのは自然だけだ。樹々と大地、そして青く拡がる空。
今回の旅ではこの町がとても気に入った。ロンダという町の風景だ。

e0208107_7394010.jpgただでさえ高所恐怖症なので、こんなところで暮らしていて、この断崖に転げ落ちたらとぞっとするが、なぜかこの町に一ヶ月くらいなら過ごしてみたいと思った。それはおそらくこの高い崖の下に拡がる広大な平野の風景が気にいったからだ。スペインに行くまでは知らなかった地名、ロンダやミハス、コンスエグラという町が魅力的だった。アンダルシア地方のエリア。麦を刈り取った後の広大な畑の美しさ、ひまわり畑、オリーブの林などの風景が今でも頭の中に甦る。

バルセロナはガウディ一色の都会でサグラダファミリアや建築物をいろいろと見たけれど、この写真の崖のような印象もあった。こんな風景から生まれたデザインでこの教会を作りたかったんじゃないか、とさえ思った。グロテスクと言ってもよいようなデザインはよく見かけるゴシック様式の作りと違うし、スペインが歴史的にイスラム文化と混合しているという説明もガイドから聞いた。

もともとシュールなもの生みだす国なのかもしれない。ダリやピカソやゴヤというだけではなく、映画でもブニュエルがいる。「カタロニア讃歌」という記録文学があって、著者のジョージ・オーウェルはサグラダファミリアを醜悪な教会だと書いている。
「カタロニア讃歌」はスペイン人民戦線の義勇兵となったオーウェルの記録文学だ。ヘミングウェイやフランスのアンドレ・マルローも戦線に参加している。そして、その戦争体験を作品として結実させた。
そして、キャメラマンのロバート・キャパは人民戦線の戦いの中で衝撃的な写真を残し、同行していた恋人のゲルダ・タローを事故で失う。

去年、ヘミングウェイの小説を読み漁っている時に、ふとスペインに行ってみたいと思った。それから一年を経ての旅だった。旅のお供に文庫本の「ドン・キホーテ」@セルバンテスを携えたが、夜にページを開くことはほとんどなかった。暑い中を歩き疲れて余力がない。へなへな。だって、気温が38度~40度なのだから。体温より高い。持っているカメラも熱くなった。

戻ってきてから「ドン・キホーテ」を読み始めたが、学生の頃に途中でやめた作品だ。16世紀から17世紀にかけて活躍した作家だが、日本で言うと戦国時代と江戸時代の初期。スペインの騎士道という話だが、主人公のドン・キホーテの狂い方は尋常ではない。周囲の人間が狂人と知りながら対応していく様子が面白い。

日本では豊臣と徳川が戦っていて家康が天下取りをした時代に、ヨーロッパの端ではこんな文学が生まれていたんだな、と思う。そして、これもやはり国柄を反映してシュールな色合いを持つものだ。
いつ完成するかわからないガウディの建築とドン・キホーテにはある種の共通点があるのかもしれない。
しばらくは「ドン・キホーテ」に付き合ってみようかと思っている。
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# by wassekuma | 2017-06-25 06:08 | 日常  

旅の空の下で

6月になっている。
今月が終わると、もう一年の半分が過ぎるわけで、ほんとに時間がたつのがはやいと思う。
6月はスケジュールが立て込んでいて、「晴耕雨読」というモードからは程遠いような予定表になっている。

明日から二年ぶりの海外旅行、スペインへの旅があって、日本に帰ってからすぐに、箱根で学生時代の友人たちを中心にした「温泉麻雀」が控えている。
ちょうど一週間ほど前にはインドに在住の友人とも会えた。昔の同人誌仲間でもあり、今回会ったのも武蔵小山でカフェをやっている友人の店で、私も含めたこの三人で同人誌を発行した。もう40年以上も前の出来事。

彼ら二人は、私が無理やり同人誌に引っ張り込んだような気がしているが、それからの長い時間が経っている。その時々の記憶が何かの切れはしのようになって現れる。しかし、お互いの記憶を話していると、食い違いがあったりどちらかが忘れていることも多い。自分にとっては羽のように思える思い出が相手にとっては鉛のように重かったりする。

この年になって辿りついた境遇を見てみると、三人とも好きなことをやって生きてるな、という印象だ。学生時代にも好き勝手な生活はあったし、冒険を恐れない何かはあったが、今との違いは、そこそこみんな常識的な大人になってるな、という感じだ。当たり前か。
大学から消えて放浪して与那国島に辿りついた友人は今はインドで暮らしているし、音楽を生活の糧としていたような友人は、音楽の造詣を深めながらライブカフェを運営してネットワークを拡げている。
種は40年前からあったのだ。

文学作品で言うと、G・フロベールは「感情教育」の最後に「あの頃は愉しかった」という言葉を使っているし、記憶が過去を彩って輝くということはあるのかもしれない。この小説は登場する若者が、それぞれの経験を通して成長していくいわゆるビルドゥングスロマンだが、フロベールは多重人格的な作家で、同じようなトーンの作品は残さなかった。
晩年に書いた「ブヴヮールとペキシェ」では二人の老人がいろいろな知識を追い求めて研究するという物語を作った。ここでは、過去の回想が重きを置くことはない。年老いた男二人が「何かを知ること」の意味は何か。

旅をしていて、頭をよぎるのはこの老人たちの物語だ。ここではないどこか、いまではないいつか、ということが旅の面白さになる。城下町に流れる空気、自然に任せて農業に取り組む集落、観光を商売としてどうしていくか、老舗が続けなくてはいけない不断の努力、新たな経営モードに切り替えて失敗した老舗旅館、そういった様々な表情を旅をしながら見ることになる。

そして、その土地にある習慣や様々な謂れを聞くことになる。
例えば富士の麓で言われる「農鳥」という言葉。春になって富士山の雪が溶けてきて中腹くらいに鳥の形のような残雪が見えたら、夏に向けて農作業を始めるという知らせだ、というような話。その地の新聞にも「農鳥」の写真が掲載されるらしい。そんなことを現地の人に教えてもらう。
これが、富士山の中腹の農鳥の写真だ。
e0208107_14164642.jpgここも日本だ、という呟きが生まれる。大きな空の下でその土地の空気を吸うと、高村光太郎の「あどけない話」という詩で妻の智恵子が「東京には空がない」と言い、阿多多羅山の空がほんとの空だという言葉が思い出される。その地に住む人にとっての空は違うのだ。
おそらく空気も違う。彼女の暮らした福島の二本松の空気だ。東京の空気ではない。
科学的には、なんで?ということだが、直観的にはわかるような気がする。
昔の話だが、岩手の小岩井農場に行った時に遠くに望む岩手山の美しさに引きこまれた。その時に、ふと、空が違う、と思ったのだった。

もう晩年といってよい老人が何かを知ることに目を輝かせるという小説に触れたが、この人たちは何かを新たに発見することによって、それを知ったことで自分の中に生まれたものを発見することになる。

私が若い頃から町歩きや旅が好きなのは、きっとそういうことなのだろう、と思う。なんせ、五歳の時にも行方不明事件を起こした子どもだったんだから。家の近くを流れる武庫川を捜索したらしい。心配した親たちに、ごめん。溺れてませんでした。

というわけで、明日から旅にでます。今回はどんな空を見上げるのやら。
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# by wassekuma | 2017-06-05 10:38 | 日常