映画館の風景 2017年夏

今月は映画館で映画を見る予定が多くなっている。
映画はDVDで見る場合がほとんどで、直接映画館で見る機会は少ない。本来はあの暗いスペースの中で見るのが筋だとは思うが、見たい映画がかかっていないので仕方なくDVDで見る。

本の世界と一緒で、読みたい本が古本屋にしかない場合が多くなっている。
結局は自分が流行りものとは違うものを追いかけているんだな、と思う。最近の映画の上映コマーシャルを見ても、ゲームソフトのPRフィルムと混同してしまうようなものがあって、興味がわかない。
映画の製作技術がCGなどの駆使によって、映画の画面の中でCGが生きるように映画がつくられる。カメラや美術や小道具などの職人技は、もう稀薄な世界になっているのだろう。
例えば、成瀬巳喜男の「浮雲」のセットで腕を見せた中古智のような仕事はもう注目されない。あの焼跡闇市の新宿の風景はよく作ったものだ、と思う。これも古い映画。

というようなわけで、今年になって見た映画は35本あるけど、映画館で見たのは、そのうち14本しかない。
今月は日本映画@神保町シアターとアメリカのフィルムノワール特集@シネマヴェーラで5回ほど見ることになっている。どれも古い映画である。戦前戦後という時期のものばかりだ。

映画を見た記憶は五歳頃から始まっている。
尼崎の武庫川という駅の近くに住んでいて、父親が日曜日になると駅前の映画館に連れて行ってくれた。東映の映画常設館だった。今では考えられないことだが、10日に2本くらいのペースで東映は新作映画を作っていた。錦之助・千代介が若手男優のツートップという時代。大御所としては片岡千恵蔵・市川右太衛門、大友柳太朗などがいた。誰やねん、それ、という人が多いと思う。

まあ、そんな人たちに毎週のようにスクリーンで会っていたわけだ。時代劇ばかりで、映画が終わると観客が拍手をした。時々、声をあげて野次を飛ばすおやじもいた。上映中に煎餅を齧る人、酒を飲む人、居眠りをしていびきをかいている人、そんな人たちの風景が闇の中で見かけられたのは、私が映画館で目を凝らして映画を見ていた昭和の時代にはあったと思う。

今はほんとにクリーンでスマートな小屋になっている。上映中の注意事項もアナウンスされて、みんなも静かに従ってマナーを守ろうとする。昔のように、映画の役者(悪役)に対して、「うそ言ってんじゃねえよ、おまえ」とか声をかける人は排除されるのだろうか。面白いと思うんだけど。

今回のアメリカ映画はフリッツ・ラングとニコラス・レイという二人の監督が目当てだった。複数の映画を見たが、ラングの「飾り窓の女」とレイの「危険な場所で」が突出していたように思う。
ラングは彼の映画の中で最初に注目を浴びた「M」という映画で注目して彼の作品をいろいろと見ていた。
e0208107_12181139.pngこんな監督だ。片眼鏡がトレードマークで晩年には黒い眼帯をしている。名前でわかるようにドイツ出身の監督でユダヤ人だった。ナチスドイツから逃亡してハリウッドに辿りついた。ビリー・ワイルダーと同じような軌跡だ。この「飾り窓の女」は初見だったが、映画が終わった時に、スイスのダニエル・シュミット監督の「ラ・パロマ」を連想した。もちろん作風は違うけど、ラングの影響をシュミットは受けてるんだなと思った。
映画に限らず、音楽や美術でも引き継がれるDNAはある。それが芸術の分野の特性だろう。「ラ・パロマ」は1974年の映画だからシュミットの亡くなる2年前だ。彼は「ラ・パロマ」を見たのだろうか。この「飾り窓の女」は個性派俳優で注目を浴びたエドワード・G・ロビンソンが主人公を演じている。

もう一人の監督。ニコラス・レイ。この人もラングと同様に70年代のフランスのヌーヴェルヴァーグに影響を与えた。ゴダールやトリュフォーも影響を受けている。なんの符合か、ラングと同様に晩年は片目に黒い眼帯をしている。そう言えば、ジョン・フォードも眼帯。なんで?カメラを覗きすぎて目が悪くなるのだろうか。

e0208107_1365541.pngこの監督は「大砂塵」や「理由なき反抗」で知られているけど、その前には犯罪物を扱ったフィルムノワールで活躍していた。犯罪物がアメリカ映画の得意技であった時代の監督。カメラも白黒映画の特性を生かして光と影のはっきりとした映像を作っている。ヒロインの顔にスポットライトを当てて美しさを演出する技法はこの頃に磨かれたのではないか。
とにかくこの監督は多くのトラブルを起こしているようだ。風貌を見ても危ないものを感じる。

映画館でこの映画を見ているのは、ほとんどが私と同世代で映画青年のなれの果てという感じだった。40年も前の記憶をなぞりながら、色のつかない白黒の黴臭いような画面を見つめている。

昔の小屋の雰囲気とは違って、トイレもきれいだし臭いもない。そして、昔のように前の椅子に座高の高い人が座って字幕が見え辛いというようなこともない。座り心地のよい椅子に座って見ることができる。椅子の脇にはペットボトルがおけるようなポケットもついている。気がきいている。でも、「館内での飲食はご遠慮ください」というアナウンスは流れる。時代なのだ。

穏やかな規制があって、みんなは黙って、そう、まるで有名なラーメン屋のラーメンの味を黙って味わうようにして映画を見る。今回の同世代の人たちも、そして私も、ユーモラスなシーンには微かな笑い声をあげるが、昔のように手を叩いて大笑いする観客はいない。
お祭りに参加するような気分や、闇の中で美しい女優をみて憧れるという新鮮さは、もう遠くなった風景なのだろう。
思えば、最も古い記憶の東映映画はほとんど全てがハッピーエンドであり、最後に拍手する際にも「お約束」的な感じがあった。おそらく明るい行き先が見えているように思える時代だったのだろう。
今考えれば変な映画もあった。チャンバラの戦いが終わって、ヒーローが勝利すると、そのエンディングの際に、どこにいたのか多くの着物姿の女性が出てきて音楽に合わせて踊るのだ@旗本退屈男。観客も手拍子で応えた。

渋谷と神保町の二つの映画館の話をしたが、このような映画館はまだ他にもあって頑張っていろいろなプログラムを提供してくれている。そして、老人介護のような空気の中で映画館を守っている若いスタッフの人たちには感謝するし、これもまた高齢化時代の新しい映画館の風景なのだ。そう思った。
「お忘れ物にはご注意ください。最近お忘れ物が多くなっております」。これが最後のアナウンスだった。
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# by wassekuma | 2017-08-16 12:31 | 映画  

夏空の下、木曽路を歩く

暑い日が続いている。明日には台風が東京にもやってくるようだ。
7月末に木曽路を旅した。
木曽路はすべて山の中である、と島崎藤村は「夜明け前」の書き出しに置いた。「夜明け前」を読んだのは、これもまた二十歳すぎの昔話になる。滝沢修が主人公の青山半蔵を演じた映画も見た。確か監督は吉村公三郎だった。
藤村には「家」という作品もあるが、家父長制の中で日本の近代化を受け入れていく流れを描いたものを遺した。時代の波に揺れる人々のありようが表現される。人より「家」が重視された時代だ。
そして、近代化が進むと「家」より「国家」が重視される。国益という言葉が金看板のようになった。

今回の旅は、馬籠~妻籠~奈良井宿という三か所の宿場を回るのが主目的だった。そして、渋温泉。
すでに情報として知っていたが外国人に人気のあるルートだ。ビルの林立する街ではなく、山の中で100年単位の生活が風景として感じられるところを選ぶということになるのだろう。
先年、吉野山に行った時にも外国人の多さに驚いた記憶がある。

e0208107_9424248.jpgこれは奈良井宿の風景だが、寄ってみたい店があった。木工やからくり人形を作っている職人さんの店だった。飛騨の職人もそうだが、雪深い地方では木工が発達して、何か愉しむようにからくり人形を作ったりする。材料の木には事欠かない。なんせ、「山の中」である。店に入ると、私と同世代の女性がいて、木彫をしていた夫が数年前に亡くなったと言う。だから、ここは作品展示室にして商品としては置いていない、という話だった。

夫が40年をかけて作ったものを記念として残しておきたいのだろう。商品にすると、目の前から消えてしまう。黙々と木を彫り続けた夫だったが、何かアイデアが湧くと生きいきとして作品を作り上げた。サラリーマンの仕事を一年でやめて独自の手法で木に向かっていったということだ。「藤屋」という屋号の店だ。

旅をしていると風景との交流や発見だけではなく、その地域の人々との一期一会に近い関わりができるし、現場ならではの話や、知識を得ることができる。それが面白い。
奈良井宿の喫茶店でも、店の主人が、降嫁する皇女和宮の一行がこの街道を通って江戸を目指して歩いて行ったという話を熱く語った。東海道は大井川などの大きな河川があるので避けたという話だ。
こんな山の中を歩いて行ったのか、大変な旅だったろうな。

馬籠では、フランス人の夫婦と一瞬だが交流した。奥さんの話では、通りの脇道に入っていったら、田圃の向こうに子熊が二頭見えたと言うことだった。興奮して案内所に来てそれを伝えようとしている。そして、なぜか猿はどこに生息しているのか、と訊いていた。こちらは、子熊がいるということは親もいるんだよ、と、ちょっと緊張した。
案内所の看板には「熊に注意」という意味の英語が赤い文字で書かれていた。
山の中での出来事である。地元のかぼちゃで生でも食べられるものがあることも知った。話してくれたおやじはかぼちゃには余り興味がないようで、蜂の巣を軒下から取り除くことに熱くなっていた。若い人が長い脚立を持って行って、それに昇って蜂の巣をとった。

夏空の下で、いろいろな人が時間を過ごしている。名前もわからないような樹々に覆われた山の中で生活を営んでいる。今回の旅は、ほんとうによく歩いた。暑い中を・・。
最後におまけの写真を付ける。
e0208107_10115434.jpg友人のサイトから見つけたのだけど、この水まきの写真が気にいった。割烹着を着ている女性の表情がとてもいい。明るく笑っていて、豪快な様子は、負けるか、こんな暑さに、という雰囲気もある。そして、周囲の風景に見える木の板塀は、もう余り見かけないものだ。まかれた水の放物線も美しい。昭和の匂いのする写真だが、こんな原始的な野性味のある光景はもう見ることはできない。便利さ、進化という流れが反・進化を押しつぶしていく。

人間はどこまで「進化」し続けていくのだろう。経済発展がなければ何も始まらないようなことを誰が考えたのだろう。ふと、そう思う。
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# by wassekuma | 2017-08-07 10:38 | 日常  

「富士日記」を読みながら

明日からまた関西の方に向かう。夙川にある実家に寄り、老母との時間を過ごし、翌日は神戸の三宮で中学の同窓会に参加する。

旅のお伴になる本は「富士日記」だ。これで、三回ほど読んでいる日記。武田百合子の書いた本。
武田百合子は武田泰淳の妻で、学生時代にのめり込んでいた作家の泰淳を通して彼女の存在を知った。
神保町の「らんぼう」というバーで知り合って二人は結婚する。この店は出版社のオーナーが経営していて、戦後間もない時期に作家のグループがたむろしていたという店だった。

そこで百合子はウエイトレスとして働いていた。そして、付き合い始めた泰淳が「もの喰う女」という作品に彼女を投影して結実させる。1948年のことだ。戦後の日本の人々のエネルギッシュな様子を描いたものとして、石川淳の「焼跡のイエス」とこの小説は、私にとって代表的な二作品だった。

もちろん、その他の流儀の作家たちは活発に動いていて、第一次戦後派とか無頼派という意匠を受けて次々と作品を書いていた。この作家たちの中には、島尾敏雄もいたが、今回の文章では触れない。
武田百合子に焦点をあてる。「富士日記」を軸として。

日本の文学史で日記文学は長い歴史を持つし、近代以降において思い浮かぶだけでも、荷風の「断腸亭日乗」や、大仏次郎、高見順の戦後の日記、古川ロッパ、徳川夢声などの長い日記、山田風太郎の戦前からの日記、それぞれが文学史的な意味を持っている。先の島尾も「死の棘日記」として残している。

武田百合子は「富士日記」で評価を得たが、それ以外にもロシアエリアの旅を描いた「犬が星見た ロシア旅行」という作品もある。読んでいくとわかるのは、この人は根っからの「見る人」だということだ。
目の前の事象をよく見ていて、それから吐きだす言葉は直截で飾りがない。直感だけで書いているという気がする。その直感を最もよくあらわしているのは前にも触れたが「枇杷」という文章だと思う。

この事実は富士の山荘での記述にある。昭和45年6月29日の日記に書かれている。
この山荘は赤坂のアパートに住んでいた武田の家族が河口湖の近くに別荘として求めたもので、しょっちゅう百合子が車を運転してやってきていた(夫の泰淳は運転ができない)。そこで、日記でもつけたらと勧めたのは夫だった。彼女は最初はためらっていたが、家計簿の延長のように書き始める。これが上下二冊の本になり文学賞(田村俊子賞)まで受けるとは思ってもいなかっただろう。

6月29日の記述に戻る。日常を克明に書くので、車で出かけて鮭ちらし弁当200円、サンドイッチ200円などを買い求め、談合坂で車に給油する。バッテリーも一本買って、計2250円。ささいな日常だ。
小屋に帰ると、野ばらが咲いている。松葉ぼたんは満開。昼は二人で茄子とねぎと卵の入ったすいとんを食べる。二人でよくすいとんを食べている。
それから食後に枇杷を食べる。この文章は三行ほどの短い記述だ。この短い文章で「おいしい」という言葉を百合子は二回使っている。夫がゆっくりと二個食べるうちに彼女は八個食べる。そのあとに二人は昼寝する。家の小窓から樹の匂いが漂ってくる。かっこうが啼いている。
この三行ほどの記録を、泰淳が亡くなったあとに思い出として書いているのが「枇杷」だ。

この文章も長いものではない。数分で読み終える。しかし、日記との大きな違いはもういなくなった泰淳を思い出して書いた部分だ。「枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。知らなかった」と彼は言う。肉が好きで果物を普段は自分から食べたがらない夫だった。それから百合子の「見る人」の眼が追いかけていく。少し震える指で口に入れ、歯がないので枇杷を歯茎でもごもごと食べる様子。それから徹夜の疲れもあって長椅子に横臥したまま眠っていく夫。

私が感心したのは、枇杷食べる手、そして横たわった泰淳が腹の上に組んでいる手の描写だった。
その手を見て百合子は書く。~もの書きというより、篤実な農夫か、田舎寺の坊様の手かもしれない~と。
泰淳に対しての作家論はいろいろとあるが、このような文章で直感的に表現したものはない。
手の描写で彼の作風を簡潔に言い表している。そして、文章の最後にはしっかりと夫が二個、自分が八個食べたことも忘れずに書いている。おそらく泰淳は、よく喰うなあ、と見ていたのではないか。

日記を読むと、泰淳はこの枇杷以外にも「みょうが」の味にも、こんなにうまいものだったんだ、という感想を言っている箇所がある。ささやかで、一見つまらなく思えるような日常、富士山麓での生活が貴重なものであったことが分かる。もう余り話題にもならない作家かもしれないがこんな夫婦だった。
e0208107_12132167.jpg百合子の抱いている猫、タマという名の猫は泰淳の死後も長生きして19歳で亡くなった。「日々雑記」という百合子のエッセイの中で彼女はこの猫の死も描いているが、独特のユーモアを含めて描写しながら哀切なものも伝わってくるいい文章だ。この人の「遊覧日記」という作品で、泰淳の亡くなった後に浅草を一人歩きしていた彼女が、花屋敷に行って仕事をさぼっていると思われるサラリーマンがジェットコースターに一人で乗っているのを目撃する。怖がっている様子を観察する。平日の昼間にジェットコースターに乗ろうと思ったサラリーマンは謎だ。しかし、その描写にはやはり「見る人」の眼差しを感じる。これも魅力的な文章だった。

もうこの二人はいなくなっているが、20歳代の自分を思い出すと、町歩きのことやいろいろな考え方に影響を与えられたな、と、この年になって思う。
今でも、こんなうまいものがあったのか、と思えるし、こんな風景は見たことがないな、と眼をみはる。そして、町歩きの際には、あの人は何をしてるんだろう、と視線を投げることもある。
泰淳が枇杷を発見したように、何かを見つけた時に、言葉を発せる相手がいるということ。百合子は無意識のうちにそのことを知っていたと思う。ささやかでつまらないことをちゃんと「見る人」だったのだ。そして、見たものを自分の感性で「受けとめる人」でもあった。
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# by wassekuma | 2017-07-13 12:31 | 文学  

アンジェイ・ワイダの遺作を見に行った@神保町

都議会選挙の騒ぎがあって、将棋の藤井聡太さん(なぜか14歳の少年がテレビでは「さん」づけ)の30連勝が駄目だったというニュースが重なった日曜日が過ぎた後に、神保町の映画館に向かった。

それにしても自民党は見事な惨敗だった。既存数だった議席を30以上減らしたのだから。選挙戦の最終日に秋葉原で首相が演説して、これがまたニュースネタとしては大きな要素となった。
ネット画像で石原某が「それでは、拍手をもってお間抜けください」とか言っちゃうし、一国の首相が「あんな人たちに負けるわけはいかない」と大声を発した。
少し前には感情的になっていたことを反省すると言っていた人だ。サッカーの応援団や野球の応援じゃないんだからさ。いや、スポーツの応援の方が勝負にこだわりながらもフェアな応援をしてるか。

そんな風景を尻目に見て、岩波ホールに向かったのは、ポーランドの監督のアンジェイ・ワイダの遺作がかかっていたからだ。

ワイダは昨年90歳の生涯を閉じた。昨年に完成した「残像」というタイトルの映画。

e0208107_1783990.jpg晩年のワイダの写真。この監督の作品群にはまったのは、もう40年ほど前のことだ(またまた古い話になるが)。
最初に見たのは「灰とダイアモンド」だった。1970年代にはワイダ以外にも活躍している映画監督が多かった。「パサジェルカ」を製作中に亡くなったアンジェイ・ムンク、「夜行列車」「影」のイェージー・カヴァレロヴィッチ、「水の中のナイフ」を作り、やがてアメリカに渡ったロマン・ポランスキーなどだ。この監督たちは第二次世界大戦の記憶を投影した映画を多く作った。モノクロで光と影を表現する手法だった。

現代で受けるか、と言えばおそらく受けない。ノスタルジーとして見られるかもしれないが。ムンクの「パサジェルカ」などは強制収容所の女看守とそこに収容されていたユダヤ女が、戦後に同じ船の客として再会するところを描こうとしている。

ポーランドは、戦中はナチスドイツに蹂躙され、戦後はソ連に強権的に支配された国だ。ちょうど1968年にチェコがソ連に反旗を翻しチェコ動乱と呼ばれる騒ぎがあった。それから12年たってポーランド革命が起きる。東欧が自立を試みていく時期にポーランド映画がインパクトを持った。

ワイダは「地下水道」などのレジスタンス映画を作って監督の仕事を始めたが、その後も頑固に同じようなテーマを追い続けた。時代は変わっても、彼の流儀を変えることはなかった。多くの観客が拍手喝采するような映画ではなく、最後の作品もソ連の抑圧に耐えながら生涯を終えた実在の画家をテーマとしている。


ストゥシェミンスキ(覚えにくい名前!)という実在の画家の晩年を描いている。この画家は、政府の方針(ソ連の方針)に従って、政府の要求するような絵画を創作しろと言われるが、「自分に従う」ということを言って抵抗する。そこから彼に対する迫害が始まる。そして、彼は経済的な困窮のうちに死を迎えることになる。

このタイトル「残像」にはワイダのメッセージが隠されていると思う。実際に目にしているものと、それから眼をそむけた時に生じる残像。それを補完する想像力。おそらくワイダにとって遺作で描いたこの時代は、ほんの一瞬前に見た風景なのだ。
今の時代においても既視感のある風景が拡がっていないか。

ヨーロッパの小さな国に90歳になってもこんな情熱をもった映画人がいたことに、ある種の感銘を受けた。
そんな映画だった。
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# by wassekuma | 2017-07-05 17:52 | 映画  

スペインから帰ってきた

スペインから帰ってもう一週間は経つのだが、まだ体内時計?がずれているような時がある。
時差ボケというのとはちょっと違うのかな。とりあえず無事に旅から帰ってきました。

しかし、暑いところをよく歩きまわったなあ。初めてのスペインだったけど、昼夜の区別に体が迷ったような感じだった。午後10時近くの頃に夕焼けを見て、それまでは明るい通りを人々が歩いている。
行ってみてわかったが、彼らのシェスタ(2~3時間の昼休み)は生活のリズムとして必要なんだな、と思った。のんびりとした国民性、文化だと羨ましかったが、それとは違うわけだ。

今回の旅で印象に残っているのはシェスタの時間帯の町の風景だった。人が出歩いていなくて、ゴーストタウンのような町並みを歩くことがあった。しんとした夏の光の中で白い壁を並べている家が続く。
写真もたくさん撮ったが、名所(例えば世界遺産)と言われるところと同じように名もない村の風景がよかった。コルドバからトレドに向かう途中に寄った村では、昼寝の時間帯に道にでて椅子に座って休んでいる老人がいて、ここで暮らしている人の風景が見える。老人がこちらの方を見て目が合ったが、相手は関心も示さずに黙っている。

東北を旅するときにも感じる無人の風景。あるのは自然だけだ。樹々と大地、そして青く拡がる空。
今回の旅ではこの町がとても気に入った。ロンダという町の風景だ。

e0208107_7394010.jpgただでさえ高所恐怖症なので、こんなところで暮らしていて、この断崖に転げ落ちたらとぞっとするが、なぜかこの町に一ヶ月くらいなら過ごしてみたいと思った。それはおそらくこの高い崖の下に拡がる広大な平野の風景が気にいったからだ。スペインに行くまでは知らなかった地名、ロンダやミハス、コンスエグラという町が魅力的だった。アンダルシア地方のエリア。麦を刈り取った後の広大な畑の美しさ、ひまわり畑、オリーブの林などの風景が今でも頭の中に甦る。

バルセロナはガウディ一色の都会でサグラダファミリアや建築物をいろいろと見たけれど、この写真の崖のような印象もあった。こんな風景から生まれたデザインでこの教会を作りたかったんじゃないか、とさえ思った。グロテスクと言ってもよいようなデザインはよく見かけるゴシック様式の作りと違うし、スペインが歴史的にイスラム文化と混合しているという説明もガイドから聞いた。

もともとシュールなもの生みだす国なのかもしれない。ダリやピカソやゴヤというだけではなく、映画でもブニュエルがいる。「カタロニア讃歌」という記録文学があって、著者のジョージ・オーウェルはサグラダファミリアを醜悪な教会だと書いている。
「カタロニア讃歌」はスペイン人民戦線の義勇兵となったオーウェルの記録文学だ。ヘミングウェイやフランスのアンドレ・マルローも戦線に参加している。そして、その戦争体験を作品として結実させた。
そして、キャメラマンのロバート・キャパは人民戦線の戦いの中で衝撃的な写真を残し、同行していた恋人のゲルダ・タローを事故で失う。

去年、ヘミングウェイの小説を読み漁っている時に、ふとスペインに行ってみたいと思った。それから一年を経ての旅だった。旅のお供に文庫本の「ドン・キホーテ」@セルバンテスを携えたが、夜にページを開くことはほとんどなかった。暑い中を歩き疲れて余力がない。へなへな。だって、気温が38度~40度なのだから。体温より高い。持っているカメラも熱くなった。

戻ってきてから「ドン・キホーテ」を読み始めたが、学生の頃に途中でやめた作品だ。16世紀から17世紀にかけて活躍した作家だが、日本で言うと戦国時代と江戸時代の初期。スペインの騎士道という話だが、主人公のドン・キホーテの狂い方は尋常ではない。周囲の人間が狂人と知りながら対応していく様子が面白い。

日本では豊臣と徳川が戦っていて家康が天下取りをした時代に、ヨーロッパの端ではこんな文学が生まれていたんだな、と思う。そして、これもやはり国柄を反映してシュールな色合いを持つものだ。
いつ完成するかわからないガウディの建築とドン・キホーテにはある種の共通点があるのかもしれない。
しばらくは「ドン・キホーテ」に付き合ってみようかと思っている。
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# by wassekuma | 2017-06-25 06:08 | 日常  

旅の空の下で

6月になっている。
今月が終わると、もう一年の半分が過ぎるわけで、ほんとに時間がたつのがはやいと思う。
6月はスケジュールが立て込んでいて、「晴耕雨読」というモードからは程遠いような予定表になっている。

明日から二年ぶりの海外旅行、スペインへの旅があって、日本に帰ってからすぐに、箱根で学生時代の友人たちを中心にした「温泉麻雀」が控えている。
ちょうど一週間ほど前にはインドに在住の友人とも会えた。昔の同人誌仲間でもあり、今回会ったのも武蔵小山でカフェをやっている友人の店で、私も含めたこの三人で同人誌を発行した。もう40年以上も前の出来事。

彼ら二人は、私が無理やり同人誌に引っ張り込んだような気がしているが、それからの長い時間が経っている。その時々の記憶が何かの切れはしのようになって現れる。しかし、お互いの記憶を話していると、食い違いがあったりどちらかが忘れていることも多い。自分にとっては羽のように思える思い出が相手にとっては鉛のように重かったりする。

この年になって辿りついた境遇を見てみると、三人とも好きなことをやって生きてるな、という印象だ。学生時代にも好き勝手な生活はあったし、冒険を恐れない何かはあったが、今との違いは、そこそこみんな常識的な大人になってるな、という感じだ。当たり前か。
大学から消えて放浪して与那国島に辿りついた友人は今はインドで暮らしているし、音楽を生活の糧としていたような友人は、音楽の造詣を深めながらライブカフェを運営してネットワークを拡げている。
種は40年前からあったのだ。

文学作品で言うと、G・フロベールは「感情教育」の最後に「あの頃は愉しかった」という言葉を使っているし、記憶が過去を彩って輝くということはあるのかもしれない。この小説は登場する若者が、それぞれの経験を通して成長していくいわゆるビルドゥングスロマンだが、フロベールは多重人格的な作家で、同じようなトーンの作品は残さなかった。
晩年に書いた「ブヴヮールとペキシェ」では二人の老人がいろいろな知識を追い求めて研究するという物語を作った。ここでは、過去の回想が重きを置くことはない。年老いた男二人が「何かを知ること」の意味は何か。

旅をしていて、頭をよぎるのはこの老人たちの物語だ。ここではないどこか、いまではないいつか、ということが旅の面白さになる。城下町に流れる空気、自然に任せて農業に取り組む集落、観光を商売としてどうしていくか、老舗が続けなくてはいけない不断の努力、新たな経営モードに切り替えて失敗した老舗旅館、そういった様々な表情を旅をしながら見ることになる。

そして、その土地にある習慣や様々な謂れを聞くことになる。
例えば富士の麓で言われる「農鳥」という言葉。春になって富士山の雪が溶けてきて中腹くらいに鳥の形のような残雪が見えたら、夏に向けて農作業を始めるという知らせだ、というような話。その地の新聞にも「農鳥」の写真が掲載されるらしい。そんなことを現地の人に教えてもらう。
これが、富士山の中腹の農鳥の写真だ。
e0208107_14164642.jpgここも日本だ、という呟きが生まれる。大きな空の下でその土地の空気を吸うと、高村光太郎の「あどけない話」という詩で妻の智恵子が「東京には空がない」と言い、阿多多羅山の空がほんとの空だという言葉が思い出される。その地に住む人にとっての空は違うのだ。
おそらく空気も違う。彼女の暮らした福島の二本松の空気だ。東京の空気ではない。
科学的には、なんで?ということだが、直観的にはわかるような気がする。
昔の話だが、岩手の小岩井農場に行った時に遠くに望む岩手山の美しさに引きこまれた。その時に、ふと、空が違う、と思ったのだった。

もう晩年といってよい老人が何かを知ることに目を輝かせるという小説に触れたが、この人たちは何かを新たに発見することによって、それを知ったことで自分の中に生まれたものを発見することになる。

私が若い頃から町歩きや旅が好きなのは、きっとそういうことなのだろう、と思う。なんせ、五歳の時にも行方不明事件を起こした子どもだったんだから。家の近くを流れる武庫川を捜索したらしい。心配した親たちに、ごめん。溺れてませんでした。

というわけで、明日から旅にでます。今回はどんな空を見上げるのやら。
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# by wassekuma | 2017-06-05 10:38 | 日常  

台湾映画「台北ストーリー」を観て

今月から来月にかけて見たい映画が数本ある。
ウディ・アレンの新作、アンジェイ・ワイダの遺作、そして、河瀬直美の新作。
あと、気になっているのはオリヴィエ・アサイヤスという監督。
ウディ・アレンはもう80歳を越えているが、毎年1本のペースで映画を作り続けている。同じアメリカのクリント・イーストウッドと競り合うかのようだ。二人とも80を越えた老人である。頑張ってるなあ。

アンジェイ・ワイダは学生の頃によく見ていたポーランド映画の重鎮だった。70年代から80年にかけて多くのポーランド映画が日本の映画館にかかっていた。ワイダ以外にもイェージー・カヴァレロヴィッチの「夜行列車」や「影」も記憶に残っている。そして、1980年にポーランド革命が起きる。
ワイダは晩年の「カチンの森」まで、第二次世界大戦の頃のポーランドの悲惨な歴史や、それ以後のソ連支配の問題を追求した作品が多い。

映画には社会の鏡としての面と、なんということのない日常を描くものがあるが、その二つの領域でどう表現できるかが作品に関わる人々の腕の見せ所だろう。まあ、その他にもいろんな分野があるのだけど。
映画の中での撮影・美術・音声などの職人仕事が面白い。

先日、台湾の「台北スートリー」という映画を渋谷の小さな映画館で見ることができた。1985年の映画。
以前から好きな監督のホウ・シャオシェン(侯孝賢)が俳優として出ているのを知っていたので、それにも興味があった。幻の映画と言われていた。
監督はエドワード・ヤン(楊徳昌)で、ホウとは映画仲間だった。台湾のヌーベルヴァーグという世代だった。
ヤンはもうすでに亡くなったが、ホウはまだ健在。この二人の若者が当時の台湾の日常を描いている。アメリカに対する憧れや、日本との関係も描かれている。

この映画の前にホウが撮った「冬冬の夏休み」では日本の唱歌や夏休みに東京ディズニーランドに遊びに行くというリッチな子どもの台詞も出てくる。大体、ホウ・シャオシェンは小津安二郎の映画の影響も強い。自分の映画の中で「晩春」の1シーンを入れた作品もあったはずだ。

台北ストーリーの予告編。

映画で流れるチェロの曲は、若い頃のヨー・ヨー・マが演奏している。
少年時代の野球仲間の思い出や過去の台北の姿にとらわれる青年と前向きに生きて行こうとする娘を中心に描かれる。二人の恋愛関係は親も知っているのだが、娘の父親が企業に失敗して金に困っている。しきりに金を欲しがる老父に青年(ホウ)は支援しようとするがうまくいかない。恋人は自分の父親を見限っているのだ。だらしない父親にあきれ果てている。
そこに二人の間の軋轢が生まれる。

ここで、経済的な発展を目指す台湾の姿と過去の風景を大事にしたい台湾の姿が並行して、この物語は進められていく。ヤンはさりげない日常を丁寧に描いているが、この娘の友だちが日本の男と結婚しているという挿話も組み込んでいる。小林という名の日本人で、彼らの世代から見ると父親のような男だ。

40年ほど前の台北の街を映像として残そうとした楊や侯たちは、この風景がやがては消え去っていくことを予感していたのではないか。そう思う。日本においてもそれが言えるのだが。
この映画を作って4年後には侯孝賢は大作「非情城市」を完成する。この映画も日本との関係が色濃く反映しているものだ。家族の歴史やそれぞれの生き方が丁寧に描かれている。

またあの頃に見た「非情城市」を見てみたい、そう思いながら映画館を後にした。あと、「童年往時 時の流れ」や「恋恋風塵」も佳作として記憶に残っている。どこかの映画館でかからないだろうか。
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# by wassekuma | 2017-05-28 14:58 | 映画  

宮本常一を読む

世の中が騒然としている。
北朝鮮のミサイル発射で、アメリカ・中国・韓国・日本の連携がどうなるか、とかロシアのスタンスは、とか話題になり、トランプはFBI長官を解任しロシアとの連携が噂され、大手企業へのウィルス攻撃はアメリカの国家安全保障局からのソフト流失ではないか、と言われている。

なんだか、わけがわからんのである。世界は複雑化を進めている。環境はIT技術も含めて複雑化をしているのに(例:スマホの機能など)、人心は単純化していってるような気がする。

人心が複雑であり、価値観においてもダイバーシティ(はい、流行り言葉です)は存在するし、海外との交流、それこそ価値観の違う人々のインバウンド(はい、これも流行り言葉)も声高に語られている。
ほとんどが受け容れる側の経済原則でこれらの流行り言葉は流布されるが、東京オリンピックを旗印とした国際的なスタンスで、多くの問題になっているのは経済(お金)の問題であり、権力掌握者の立法問題だ。

人心は2020年を目途として考えることはできない。忘れられた日本人にとっては、「明日」なのだ。あるいは明後日。この「忘れられた日本人」という言葉でどんなイメージを持つのか。
権力をもつ人間は忘れることを特技として、またそのことを追求されないという立場を守ろうとする。このことは人間の長い歴史で見かけられることだ。その影には多くの人々がいる。

宮本常一の書いたものを読み直していると、発展と呼ばれる光の影で生活する人々の姿が浮かび上がってくる。
彼の「忘れられた日本人」に衝撃を受けたのは20歳半ばのことだったと記憶している。その時期に柳田国男のものを読んでいて、その川の流れの傍流のように宮本の著作を読んだ。
普通の学者と違って、現場主義の調査を重点的に行っていた。彼の支援者だった渋沢敬一に言わせると、「宮本の歩いた後に赤い点を打つと、日本地図が真っ赤になる」と言わしめた。

渋沢敬一の作ったアチックミューゼアム(後の日本常民研究所)で研究しながら多くの著作を残したが、彼は経済的な理由で大学などには進めずに、十代半ばで郵便局に勤めた。その後に師範学校に通って小学校の教師の経験がある。その間にも民俗学の研究を続けた。

そんな彼だから6歳になったら子守の賃仕事をさせられた少女の話や口減らしのために15歳くらいでむりやり結婚をさせられた女性の話も頷いて聴けたのだろう。もちろん、その結婚も夫の家の労働力強化のためだった。そのような多くの人たちの話を聞き書きするために日本中を回った。読んでいくと、西日本のウェイトが高い。そして、1960年に「忘れられた日本人」を出版する。

こんな格好で調査していた学者だ。
e0208107_10511123.png彼の遺した本で、あまり有名ではないが、「和泉の国の青春」という本がある。進学をあきらめて郵便局員になるために学校に入った頃から郵便局での仕事、そして、大阪の泉南郡の田尻尋常小学校での教師生活などを描いている。彼は田尻小学校で教師をしていた頃に結核を発症し、療養のために故郷の周防大島に帰島する。この時の児童との交情が描かれているが、それが感動的だ。
彼は見送ろうとする児童たちを避けて帰郷するのだが、その後の子どもたちとの手紙のやり取りが印象的だ。朝鮮から渡って来た孫くんという子どもとの交流も描かれているが、孫くんが生活のために朝鮮に帰国してからも文通を続けている。教え子たちは周防大島の宮本先生に彼の体の具合を心配して手紙を送っている。この子たちこそ「忘れられた日本人」の原型モデルではないのか、と思った。
そしてそれから、彼ら、彼女らは戦争の渦に巻き込まれていく。

宮本常一の残された写真を見ると、ほとんどが穏やかな微笑みを浮かべている。このようなキャラクターだから土地の人々に受け入れられたのだと思う。
村の貴重な歴史資料は、村長を含めた村の重鎮に貸出しの依頼をして、それを徹夜で転記した。その姿を見て村の人々は驚いたという。こんなちっぽけな漁村をそれほどまでして調べたいのか、と。

辞書を調べたら「そもそも」には「基本的な」という意味がある、とかどうとか、官僚の書いたペーパーを顔を近づけて棒読みするような大臣がいる状景とはかけ離れた姿勢なのだ。彼らは後ろを振り向いて、官僚の言葉を聞きとろうとする。彼らは調べていない。その多くの言葉は国会の議場を浮遊する。
「そもそも」な話、教科書には「自衛隊は違憲だ」とは書いていない。両論併記しかできないのだ。教科書検定の仕組みはそうできている。文科省の役人が、ケーキ屋を和菓子屋にしろ、というエピソードは笑い話になったが、そんなものなのだ。シビアな国内情勢にある他国のメディアはこの日本の様相をどう見るのだろう。

話を戻す。「忘れられた日本人」の中の「土佐源氏」は、これまでに何度か読み返している。盲目の老人の語る言葉のリズムや微妙な表現に魅かれるからだ。柳田国男もそうだが、宮本も言葉の鍛錬をし続けた学者だと思う。
おそらく、「遠野物語」も「忘れられた日本人」も話す相手との人間関係で醸成された言葉が生きているのだろう。対話することの意味を感じる文章。そして、対話の中で生まれる空気の暖かさ。

今年の旅の予定では夏には周防大島に行くことにした。今は、島を巡ることに興味を持っている。
佐渡などの大きな島は既に歩いている。まあ、島に対する自分の思いは、おいおいまた書いていこうと思う。
でも、島尾敏雄に縁のある加計呂麻島はちょっと遠いかな。
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# by wassekuma | 2017-05-16 10:51 | 文学  

あの頃の五月は

五月になった。
昨日の一日は久しぶりに神保町にでかけた。気になっている映画のシリーズが神保町シアターで上映されるからだ。成瀬巳喜男監督特集。彼の戦前の作品を特集した黴臭いシリーズである。

先月を振り返れば、3日から5日まで花見ツアーがあり、それから学生時代からの友人がやっている武蔵小山のライブカフェの十周年イベントがあり、そこに友人たちが集まった。そして、これも大学時代のクラス同窓会があって、渋谷や代官山を散策した。その後にアルフォンス・ミュシャの美術展(スラヴ叙事詩シリーズ)を観た。そして、またこれも40年来の友人が治療のために入っていた病院から退院してきたので、様子を見に彼の運営するカフェに行きイベントに参加した。そのイベントで若手のジャーナリストの方々との交流が持てた。
面白い一ヶ月だった。

その合間に評論を一本仕上げて、月末にはお疲れさまツアーということで伊香保の温泉につかった。ふ~。
温泉ツアーを準備してくれた相方も40年前に知りあっているので、酒に例えると、40年ものの醸成された酒をちびちびと飲みながら、あっと言う間に4月が終わった感じだ。アル中になるほどは飲めませんが。。。

あの頃は40年後の自分を想像することもなかった。
振り返ると、疾風怒涛の時代だったと思う。時間にも生活空間にも余裕がなかった。そして、今は時間の余裕があるので過去の記憶にある作家を再認識しながらものを書いたりしている。

ふと、思った。あの頃の五月頃の自分は何をしていたのだろうか、と。常に新しいステージにいたような気がする。時間の流れの中で、社会人になった時には、いわゆる「大人の世界」に違和感を感じていた。アルバイトとは違って、これから続いていくのが会社勤めなのだ。日銭を稼ぐアルバイトが懐かしく思える時もあって、そんな五月だったのではないか。

時が過ぎて、いろいろなものは変わって行くのだけれど、今回の神保町の町歩きでもそれを感じた。馴染みの古書店が数軒あって、それぞれに記憶を残しているのだが、自分が年を重ねていくのと同様に、好感をもって見ていた主人ももう老境である。入れ歯のせいか滑舌が悪くなっている主人もいる。もう店を閉めたところもある。

本来神保町の古書店は仕入れに特徴があり、店主の考え方が反映されている。そして、その嗜好や癖といったものが本棚を埋め尽くすのだ。何度も廻っているうちに、探している本がある場合には、あそこならあるだろうという勘が働くようになる。それが面白かった。

さて、そんな町の片隅、三省堂書店の脇道に神保町シアターはある。去年から数回通い始めた。
今回の成瀬巳喜男は好きな監督なのだが、戦前のものでDVD化されていない映画が上映される。
監督特集で映画を見ていた40年前とは、映画館自体が大きく変わっている。今でも、監督の名前で見る映画はあるのだけれど、監督特集三本立て上映という酔狂な映画館はほとんどない。

e0208107_936228.pngこれが成瀬巳喜男。いかにも職人風の感じがする監督だ。松竹にいたが、「小津は二人はいらない」という上層部からの意向を受けてPCLに移籍した。今の東宝である。
しかし、戦前の作品を見ると小津安二郎とはまったくテイストが違う。松竹蒲田の所長だった城戸四郎はどこを見ていたのだろう。戦後に「浮雲」を作って、小津に「これが今年のベストだろう」と言わせた。比較してみると、俳優の使い方が対極的だ。あの「晩春」の原節子に生活臭さの漂う主婦の役を与えたし(めし)、夫の行状に悩む妻(山の音)、そして、ラストシーンで風船に戯れるような女性(驟雨)を演じさせた。

小津はすごい監督だという見方は変わらない。しかし、昨日見た成瀬の二本の映画、戦前(昭和10年~12年)を見て、とても新鮮だった。二本とも女性にフォーカスした物語になっていて、あの時代によく作ったなという印象を持った。当時の家父長制度に対する反抗を描いている。
「家名」の押し付け、世間に対する面目などの「家」のもつ強制力に反抗する女性たちだ。「女人哀愁」と「噂の娘」の二本。なんか古めかしいタイトルだが、見ていると、嫁ぎ先の威圧感や、滅んでいく老舗の話などは、今でも通じるテーマに思える。

既成の制度に反抗する娘たちに対して、老人や夫は、「ああ、もう時代は変わったな」と呟く。こんな光景はいつの時代でも似ている。そして、この二本の映画でキーワードになるのは「お金」だ。小津の世界では描かれることが稀だった。

そして、それに加えて面白いのは、もう消えてしまった町の風景がスクリーンに描かれることだ。ファッションもそうで、ああ、こんな服装の人たちがいたな、とか思う。何か逆に新鮮さを感じる。
あの頃の映画作りの職人たちはすでに消えているのかもしれないが、映画に対する情熱だけはしっかりと伝わってくる。
いいものを作るにはまず情熱しかない、と思える映画人の矜持が伝わってくる。温故知新だ。
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# by wassekuma | 2017-05-02 10:05 | 映画  

ある島の物語

葉桜が美しい季節になった。
満開の桜も視線を釘づけにするが、淡い緑色の葉に囲まれた桜も風情があって、また来年、と挨拶しているように見える。そして、風に散る桜の花びらも小さな川には花筏をつくっていて、いい感じになる。

今月の初めに夙川が近くにある西宮の実家に行って家族で花見をした。愉しかった。それから京都の円山公園に出向いて枝垂れ桜の風景を愉しんだ。しかし、外国人の多いこと。すごかった。

今は、書いている評論が終わりかけていて、部屋の中には参考にする本が散乱している。
島尾敏雄に関する評論だが、長さが難しい。400字詰原稿用紙の70枚以内という規定の応募原稿。
どうしても長くなるので、刈り込み?が大変である。あの金正恩のような刈り込み?

学生時代に集中して読んでいた作家の評論だ。去年から、島尾の妻のミホについての「狂う人」という本もでているし(梯久美子氏の労作)、今年は島尾の生誕百年ということもあってか、7月末には島尾ミホの本を原作とする「海辺の生と死」が映画化されて上映される。満島ひかりがミホの役をやるようだ。島尾ミホの関連本も数冊出ている。ちょっとしたブームかもしれない。

評論の冒頭では武田泰淳の作品について触れている。なぜかというと「恥」の感覚がこの論考の主調低音のようになるからだ。武田の初期作品にある戦争中の自分の罪、そしてそれに対する「審判」の意味を考えて導入した。島尾は「死の棘」という私小説と名付けるにはためらうような小説を書いた。妻の狂気であり、家庭の崩壊だ。そして、それは自分の不行跡に起因している(愛人問題)。
おそらく夫婦の争闘をここまで描いた作品は空前絶後と言ってよいだろう。この長編を島尾は16年かけて書いている。小説に出てくる伸一とマヤという二人の子どもも重要な登場人物になる。
実際はこんな家族だった。
e0208107_11362860.jpgこの写真の雰囲気は穏やかなものだが、この家族の歴史は熾烈なものだったと思う。島尾は私小説の形態をとりながら何を書きたかったのか。題名の「死の棘」が表わすように、武田の「審判」と通底するものがあるような気がしている。

「審判」と「死の棘」は、二人の戦争体験なしには生まれなかった作品だろう。武田は戦時中の非人道的な経験があるし、島尾は震洋という特攻艇で死の直前までいってから敗戦を迎えるという極限状況を経験する。あのドストエフスキーの体験を連想するような体験だ。
そして、その時恋人だったミホも懐に小刃をしのばせて自決の準備をしていた。その光景は加計呂麻島という奄美群島にある島で展開された。

全体を美しい海に囲まれた豊かな自然の恵みを受け取る島で、島尾は部隊の隊長として住民の大平ミホと出会う。そこでの日々は初期の短編に描かれているが、強い光りの中での強烈な思い出として二人に記憶されただろう。27歳の隊長と25歳の島の娘だ。二人が死を覚悟している瞬間は島尾の作品「出孤島記」に鮮やかに描かれている。

そして、戦後になってこの二人は平時に帰還して、それからを生きて行かなくてはならなかった。この一瞬の輝きよりも長い時間が二人には残されていた。そこで事件が起きる。ミホの失望は相当に大きなものだったと思う。
「死の棘」の最後の12章で次の物語の準備のような一条の光が見える。これも事実に基づいているが、精神病院に入院するミホに付き添うように島尾も同じ病院への入院を決める。自分がどれほど彼女に非難されようとも当たられようとも同じところでの生活を選ぶ。

この作品にある「恥」と「裁き」の感覚は、現代の日本文学では稀有なものだろう。
武田泰淳は「蝮のすえ」の中で「生きて行くことは案外むずかしくないのかもしれない」と書いた。そう書いた彼は武田百合子との生活を死ぬまで続け、百合子は文章の才を示した。
島尾と暮らしたミホは島尾の死後にはずっと喪服で暮らし、若かった島尾隊長との島での思い出を綴って、この人もエッセイで評価を得た。そして、最後は奄美市で孤独死を迎えた。

評論を書いていてふと思ったのは、世界情勢での戦争騒ぎであり指導者たちの無恥な振る舞いだった。
北朝鮮に対しての防衛を強調し、アメリカ軍との連携がどうなるかという時期に、私もよく知らないような芸人たちを集めて花見の会を主催する首相がいる。うれしそうに夫婦で笑っている。今の日本はそういう国なのだ。

無恥という言葉は無知にも通じるが、間違いなく今日あげた二人の作家は「戦争」を知っていた。
そして、そのような人々は多くは残されていない。だから、彼らの子どもの世代の人間が伝えていくしかないのだろう、そう思う。
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# by wassekuma | 2017-04-17 11:36 | 文学