スペインから帰ってきた

スペインから帰ってもう一週間は経つのだが、まだ体内時計?がずれているような時がある。
時差ボケというのとはちょっと違うのかな。とりあえず無事に旅から帰ってきました。

しかし、暑いところをよく歩きまわったなあ。初めてのスペインだったけど、昼夜の区別に体が迷ったような感じだった。午後10時近くの頃に夕焼けを見て、それまでは明るい通りを人々が歩いている。
行ってみてわかったが、彼らのシェスタ(2~3時間の昼休み)は生活のリズムとして必要なんだな、と思った。のんびりとした国民性、文化だと羨ましかったが、それとは違うわけだ。

今回の旅で印象に残っているのはシェスタの時間帯の町の風景だった。人が出歩いていなくて、ゴーストタウンのような町並みを歩くことがあった。しんとした夏の光の中で白い壁を並べている家が続く。
写真もたくさん撮ったが、名所(例えば世界遺産)と言われるところと同じように名もない村の風景がよかった。コルドバからトレドに向かう途中に寄った村では、昼寝の時間帯に道にでて椅子に座って休んでいる老人がいて、ここで暮らしている人の風景が見える。老人がこちらの方を見て目が合ったが、相手は関心も示さずに黙っている。

東北を旅するときにも感じる無人の風景。あるのは自然だけだ。樹々と大地、そして青く拡がる空。
今回の旅ではこの町がとても気に入った。ロンダという町の風景だ。

e0208107_7394010.jpgただでさえ高所恐怖症なので、こんなところで暮らしていて、この断崖に転げ落ちたらとぞっとするが、なぜかこの町に一ヶ月くらいなら過ごしてみたいと思った。それはおそらくこの高い崖の下に拡がる広大な平野の風景が気にいったからだ。スペインに行くまでは知らなかった地名、ロンダやミハス、コンスエグラという町が魅力的だった。アンダルシア地方のエリア。麦を刈り取った後の広大な畑の美しさ、ひまわり畑、オリーブの林などの風景が今でも頭の中に甦る。

バルセロナはガウディ一色の都会でサグラダファミリアや建築物をいろいろと見たけれど、この写真の崖のような印象もあった。こんな風景から生まれたデザインでこの教会を作りたかったんじゃないか、とさえ思った。グロテスクと言ってもよいようなデザインはよく見かけるゴシック様式の作りと違うし、スペインが歴史的にイスラム文化と混合しているという説明もガイドから聞いた。

もともとシュールなもの生みだす国なのかもしれない。ダリやピカソやゴヤというだけではなく、映画でもブニュエルがいる。「カタロニア讃歌」という記録文学があって、著者のジョージ・オーウェルはサグラダファミリアを醜悪な教会だと書いている。
「カタロニア讃歌」はスペイン人民戦線の義勇兵となったオーウェルの記録文学だ。ヘミングウェイやフランスのアンドレ・マルローも戦線に参加している。そして、その戦争体験を作品として結実させた。
そして、キャメラマンのロバート・キャパは人民戦線の戦いの中で衝撃的な写真を残し、同行していた恋人のゲルダ・タローを事故で失う。

去年、ヘミングウェイの小説を読み漁っている時に、ふとスペインに行ってみたいと思った。それから一年を経ての旅だった。旅のお供に文庫本の「ドン・キホーテ」@セルバンテスを携えたが、夜にページを開くことはほとんどなかった。暑い中を歩き疲れて余力がない。へなへな。だって、気温が38度~40度なのだから。体温より高い。持っているカメラも熱くなった。

戻ってきてから「ドン・キホーテ」を読み始めたが、学生の頃に途中でやめた作品だ。16世紀から17世紀にかけて活躍した作家だが、日本で言うと戦国時代と江戸時代の初期。スペインの騎士道という話だが、主人公のドン・キホーテの狂い方は尋常ではない。周囲の人間が狂人と知りながら対応していく様子が面白い。

日本では豊臣と徳川が戦っていて家康が天下取りをした時代に、ヨーロッパの端ではこんな文学が生まれていたんだな、と思う。そして、これもやはり国柄を反映してシュールな色合いを持つものだ。
いつ完成するかわからないガウディの建築とドン・キホーテにはある種の共通点があるのかもしれない。
しばらくは「ドン・キホーテ」に付き合ってみようかと思っている。
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# by wassekuma | 2017-06-25 06:08 | 日常  

旅の空の下で

6月になっている。
今月が終わると、もう一年の半分が過ぎるわけで、ほんとに時間がたつのがはやいと思う。
6月はスケジュールが立て込んでいて、「晴耕雨読」というモードからは程遠いような予定表になっている。

明日から二年ぶりの海外旅行、スペインへの旅があって、日本に帰ってからすぐに、箱根で学生時代の友人たちを中心にした「温泉麻雀」が控えている。
ちょうど一週間ほど前にはインドに在住の友人とも会えた。昔の同人誌仲間でもあり、今回会ったのも武蔵小山でカフェをやっている友人の店で、私も含めたこの三人で同人誌を発行した。もう40年以上も前の出来事。

彼ら二人は、私が無理やり同人誌に引っ張り込んだような気がしているが、それからの長い時間が経っている。その時々の記憶が何かの切れはしのようになって現れる。しかし、お互いの記憶を話していると、食い違いがあったりどちらかが忘れていることも多い。自分にとっては羽のように思える思い出が相手にとっては鉛のように重かったりする。

この年になって辿りついた境遇を見てみると、三人とも好きなことをやって生きてるな、という印象だ。学生時代にも好き勝手な生活はあったし、冒険を恐れない何かはあったが、今との違いは、そこそこみんな常識的な大人になってるな、という感じだ。当たり前か。
大学から消えて放浪して与那国島に辿りついた友人は今はインドで暮らしているし、音楽を生活の糧としていたような友人は、音楽の造詣を深めながらライブカフェを運営してネットワークを拡げている。
種は40年前からあったのだ。

文学作品で言うと、G・フロベールは「感情教育」の最後に「あの頃は愉しかった」という言葉を使っているし、記憶が過去を彩って輝くということはあるのかもしれない。この小説は登場する若者が、それぞれの経験を通して成長していくいわゆるビルドゥングスロマンだが、フロベールは多重人格的な作家で、同じようなトーンの作品は残さなかった。
晩年に書いた「ブヴヮールとペキシェ」では二人の老人がいろいろな知識を追い求めて研究するという物語を作った。ここでは、過去の回想が重きを置くことはない。年老いた男二人が「何かを知ること」の意味は何か。

旅をしていて、頭をよぎるのはこの老人たちの物語だ。ここではないどこか、いまではないいつか、ということが旅の面白さになる。城下町に流れる空気、自然に任せて農業に取り組む集落、観光を商売としてどうしていくか、老舗が続けなくてはいけない不断の努力、新たな経営モードに切り替えて失敗した老舗旅館、そういった様々な表情を旅をしながら見ることになる。

そして、その土地にある習慣や様々な謂れを聞くことになる。
例えば富士の麓で言われる「農鳥」という言葉。春になって富士山の雪が溶けてきて中腹くらいに鳥の形のような残雪が見えたら、夏に向けて農作業を始めるという知らせだ、というような話。その地の新聞にも「農鳥」の写真が掲載されるらしい。そんなことを現地の人に教えてもらう。
これが、富士山の中腹の農鳥の写真だ。
e0208107_14164642.jpgここも日本だ、という呟きが生まれる。大きな空の下でその土地の空気を吸うと、高村光太郎の「あどけない話」という詩で妻の智恵子が「東京には空がない」と言い、阿多多羅山の空がほんとの空だという言葉が思い出される。その地に住む人にとっての空は違うのだ。
おそらく空気も違う。彼女の暮らした福島の二本松の空気だ。東京の空気ではない。
科学的には、なんで?ということだが、直観的にはわかるような気がする。
昔の話だが、岩手の小岩井農場に行った時に遠くに望む岩手山の美しさに引きこまれた。その時に、ふと、空が違う、と思ったのだった。

もう晩年といってよい老人が何かを知ることに目を輝かせるという小説に触れたが、この人たちは何かを新たに発見することによって、それを知ったことで自分の中に生まれたものを発見することになる。

私が若い頃から町歩きや旅が好きなのは、きっとそういうことなのだろう、と思う。なんせ、五歳の時にも行方不明事件を起こした子どもだったんだから。家の近くを流れる武庫川を捜索したらしい。心配した親たちに、ごめん。溺れてませんでした。

というわけで、明日から旅にでます。今回はどんな空を見上げるのやら。
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# by wassekuma | 2017-06-05 10:38 | 日常  

台湾映画「台北ストーリー」を観て

今月から来月にかけて見たい映画が数本ある。
ウディ・アレンの新作、アンジェイ・ワイダの遺作、そして、河瀬直美の新作。
あと、気になっているのはオリヴィエ・アサイヤスという監督。
ウディ・アレンはもう80歳を越えているが、毎年1本のペースで映画を作り続けている。同じアメリカのクリント・イーストウッドと競り合うかのようだ。二人とも80を越えた老人である。頑張ってるなあ。

アンジェイ・ワイダは学生の頃によく見ていたポーランド映画の重鎮だった。70年代から80年にかけて多くのポーランド映画が日本の映画館にかかっていた。ワイダ以外にもイェージー・カヴァレロヴィッチの「夜行列車」や「影」も記憶に残っている。そして、1980年にポーランド革命が起きる。
ワイダは晩年の「カチンの森」まで、第二次世界大戦の頃のポーランドの悲惨な歴史や、それ以後のソ連支配の問題を追求した作品が多い。

映画には社会の鏡としての面と、なんということのない日常を描くものがあるが、その二つの領域でどう表現できるかが作品に関わる人々の腕の見せ所だろう。まあ、その他にもいろんな分野があるのだけど。
映画の中での撮影・美術・音声などの職人仕事が面白い。

先日、台湾の「台北スートリー」という映画を渋谷の小さな映画館で見ることができた。1985年の映画。
以前から好きな監督のホウ・シャオシェン(侯孝賢)が俳優として出ているのを知っていたので、それにも興味があった。幻の映画と言われていた。
監督はエドワード・ヤン(楊徳昌)で、ホウとは映画仲間だった。台湾のヌーベルヴァーグという世代だった。
ヤンはもうすでに亡くなったが、ホウはまだ健在。この二人の若者が当時の台湾の日常を描いている。アメリカに対する憧れや、日本との関係も描かれている。

この映画の前にホウが撮った「冬冬の夏休み」では日本の唱歌や夏休みに東京ディズニーランドに遊びに行くというリッチな子どもの台詞も出てくる。大体、ホウ・シャオシェンは小津安二郎の映画の影響も強い。自分の映画の中で「晩春」の1シーンを入れた作品もあったはずだ。

台北ストーリーの予告編。

映画で流れるチェロの曲は、若い頃のヨー・ヨー・マが演奏している。
少年時代の野球仲間の思い出や過去の台北の姿にとらわれる青年と前向きに生きて行こうとする娘を中心に描かれる。二人の恋愛関係は親も知っているのだが、娘の父親が企業に失敗して金に困っている。しきりに金を欲しがる老父に青年(ホウ)は支援しようとするがうまくいかない。恋人は自分の父親を見限っているのだ。だらしない父親にあきれ果てている。
そこに二人の間の軋轢が生まれる。

ここで、経済的な発展を目指す台湾の姿と過去の風景を大事にしたい台湾の姿が並行して、この物語は進められていく。ヤンはさりげない日常を丁寧に描いているが、この娘の友だちが日本の男と結婚しているという挿話も組み込んでいる。小林という名の日本人で、彼らの世代から見ると父親のような男だ。

40年ほど前の台北の街を映像として残そうとした楊や侯たちは、この風景がやがては消え去っていくことを予感していたのではないか。そう思う。日本においてもそれが言えるのだが。
この映画を作って4年後には侯孝賢は大作「非情城市」を完成する。この映画も日本との関係が色濃く反映しているものだ。家族の歴史やそれぞれの生き方が丁寧に描かれている。

またあの頃に見た「非情城市」を見てみたい、そう思いながら映画館を後にした。あと、「童年往時 時の流れ」や「恋恋風塵」も佳作として記憶に残っている。どこかの映画館でかからないだろうか。
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# by wassekuma | 2017-05-28 14:58 | 映画  

宮本常一を読む

世の中が騒然としている。
北朝鮮のミサイル発射で、アメリカ・中国・韓国・日本の連携がどうなるか、とかロシアのスタンスは、とか話題になり、トランプはFBI長官を解任しロシアとの連携が噂され、大手企業へのウィルス攻撃はアメリカの国家安全保障局からのソフト流失ではないか、と言われている。

なんだか、わけがわからんのである。世界は複雑化を進めている。環境はIT技術も含めて複雑化をしているのに(例:スマホの機能など)、人心は単純化していってるような気がする。

人心が複雑であり、価値観においてもダイバーシティ(はい、流行り言葉です)は存在するし、海外との交流、それこそ価値観の違う人々のインバウンド(はい、これも流行り言葉)も声高に語られている。
ほとんどが受け容れる側の経済原則でこれらの流行り言葉は流布されるが、東京オリンピックを旗印とした国際的なスタンスで、多くの問題になっているのは経済(お金)の問題であり、権力掌握者の立法問題だ。

人心は2020年を目途として考えることはできない。忘れられた日本人にとっては、「明日」なのだ。あるいは明後日。この「忘れられた日本人」という言葉でどんなイメージを持つのか。
権力をもつ人間は忘れることを特技として、またそのことを追求されないという立場を守ろうとする。このことは人間の長い歴史で見かけられることだ。その影には多くの人々がいる。

宮本常一の書いたものを読み直していると、発展と呼ばれる光の影で生活する人々の姿が浮かび上がってくる。
彼の「忘れられた日本人」に衝撃を受けたのは20歳半ばのことだったと記憶している。その時期に柳田国男のものを読んでいて、その川の流れの傍流のように宮本の著作を読んだ。
普通の学者と違って、現場主義の調査を重点的に行っていた。彼の支援者だった渋沢敬一に言わせると、「宮本の歩いた後に赤い点を打つと、日本地図が真っ赤になる」と言わしめた。

渋沢敬一の作ったアチックミューゼアム(後の日本常民研究所)で研究しながら多くの著作を残したが、彼は経済的な理由で大学などには進めずに、十代半ばで郵便局に勤めた。その後に師範学校に通って小学校の教師の経験がある。その間にも民俗学の研究を続けた。

そんな彼だから6歳になったら子守の賃仕事をさせられた少女の話や口減らしのために15歳くらいでむりやり結婚をさせられた女性の話も頷いて聴けたのだろう。もちろん、その結婚も夫の家の労働力強化のためだった。そのような多くの人たちの話を聞き書きするために日本中を回った。読んでいくと、西日本のウェイトが高い。そして、1960年に「忘れられた日本人」を出版する。

こんな格好で調査していた学者だ。
e0208107_10511123.png彼の遺した本で、あまり有名ではないが、「和泉の国の青春」という本がある。進学をあきらめて郵便局員になるために学校に入った頃から郵便局での仕事、そして、大阪の泉南郡の田尻尋常小学校での教師生活などを描いている。彼は田尻小学校で教師をしていた頃に結核を発症し、療養のために故郷の周防大島に帰島する。この時の児童との交情が描かれているが、それが感動的だ。
彼は見送ろうとする児童たちを避けて帰郷するのだが、その後の子どもたちとの手紙のやり取りが印象的だ。朝鮮から渡って来た孫くんという子どもとの交流も描かれているが、孫くんが生活のために朝鮮に帰国してからも文通を続けている。教え子たちは周防大島の宮本先生に彼の体の具合を心配して手紙を送っている。この子たちこそ「忘れられた日本人」の原型モデルではないのか、と思った。
そしてそれから、彼ら、彼女らは戦争の渦に巻き込まれていく。

宮本常一の残された写真を見ると、ほとんどが穏やかな微笑みを浮かべている。このようなキャラクターだから土地の人々に受け入れられたのだと思う。
村の貴重な歴史資料は、村長を含めた村の重鎮に貸出しの依頼をして、それを徹夜で転記した。その姿を見て村の人々は驚いたという。こんなちっぽけな漁村をそれほどまでして調べたいのか、と。

辞書を調べたら「そもそも」には「基本的な」という意味がある、とかどうとか、官僚の書いたペーパーを顔を近づけて棒読みするような大臣がいる状景とはかけ離れた姿勢なのだ。彼らは後ろを振り向いて、官僚の言葉を聞きとろうとする。彼らは調べていない。その多くの言葉は国会の議場を浮遊する。
「そもそも」な話、教科書には「自衛隊は違憲だ」とは書いていない。両論併記しかできないのだ。教科書検定の仕組みはそうできている。文科省の役人が、ケーキ屋を和菓子屋にしろ、というエピソードは笑い話になったが、そんなものなのだ。シビアな国内情勢にある他国のメディアはこの日本の様相をどう見るのだろう。

話を戻す。「忘れられた日本人」の中の「土佐源氏」は、これまでに何度か読み返している。盲目の老人の語る言葉のリズムや微妙な表現に魅かれるからだ。柳田国男もそうだが、宮本も言葉の鍛錬をし続けた学者だと思う。
おそらく、「遠野物語」も「忘れられた日本人」も話す相手との人間関係で醸成された言葉が生きているのだろう。対話することの意味を感じる文章。そして、対話の中で生まれる空気の暖かさ。

今年の旅の予定では夏には周防大島に行くことにした。今は、島を巡ることに興味を持っている。
佐渡などの大きな島は既に歩いている。まあ、島に対する自分の思いは、おいおいまた書いていこうと思う。
でも、島尾敏雄に縁のある加計呂麻島はちょっと遠いかな。
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# by wassekuma | 2017-05-16 10:51 | 文学  

あの頃の五月は

五月になった。
昨日の一日は久しぶりに神保町にでかけた。気になっている映画のシリーズが神保町シアターで上映されるからだ。成瀬巳喜男監督特集。彼の戦前の作品を特集した黴臭いシリーズである。

先月を振り返れば、3日から5日まで花見ツアーがあり、それから学生時代からの友人がやっている武蔵小山のライブカフェの十周年イベントがあり、そこに友人たちが集まった。そして、これも大学時代のクラス同窓会があって、渋谷や代官山を散策した。その後にアルフォンス・ミュシャの美術展(スラヴ叙事詩シリーズ)を観た。そして、またこれも40年来の友人が治療のために入っていた病院から退院してきたので、様子を見に彼の運営するカフェに行きイベントに参加した。そのイベントで若手のジャーナリストの方々との交流が持てた。
面白い一ヶ月だった。

その合間に評論を一本仕上げて、月末にはお疲れさまツアーということで伊香保の温泉につかった。ふ~。
温泉ツアーを準備してくれた相方も40年前に知りあっているので、酒に例えると、40年ものの醸成された酒をちびちびと飲みながら、あっと言う間に4月が終わった感じだ。アル中になるほどは飲めませんが。。。

あの頃は40年後の自分を想像することもなかった。
振り返ると、疾風怒涛の時代だったと思う。時間にも生活空間にも余裕がなかった。そして、今は時間の余裕があるので過去の記憶にある作家を再認識しながらものを書いたりしている。

ふと、思った。あの頃の五月頃の自分は何をしていたのだろうか、と。常に新しいステージにいたような気がする。時間の流れの中で、社会人になった時には、いわゆる「大人の世界」に違和感を感じていた。アルバイトとは違って、これから続いていくのが会社勤めなのだ。日銭を稼ぐアルバイトが懐かしく思える時もあって、そんな五月だったのではないか。

時が過ぎて、いろいろなものは変わって行くのだけれど、今回の神保町の町歩きでもそれを感じた。馴染みの古書店が数軒あって、それぞれに記憶を残しているのだが、自分が年を重ねていくのと同様に、好感をもって見ていた主人ももう老境である。入れ歯のせいか滑舌が悪くなっている主人もいる。もう店を閉めたところもある。

本来神保町の古書店は仕入れに特徴があり、店主の考え方が反映されている。そして、その嗜好や癖といったものが本棚を埋め尽くすのだ。何度も廻っているうちに、探している本がある場合には、あそこならあるだろうという勘が働くようになる。それが面白かった。

さて、そんな町の片隅、三省堂書店の脇道に神保町シアターはある。去年から数回通い始めた。
今回の成瀬巳喜男は好きな監督なのだが、戦前のものでDVD化されていない映画が上映される。
監督特集で映画を見ていた40年前とは、映画館自体が大きく変わっている。今でも、監督の名前で見る映画はあるのだけれど、監督特集三本立て上映という酔狂な映画館はほとんどない。

e0208107_936228.pngこれが成瀬巳喜男。いかにも職人風の感じがする監督だ。松竹にいたが、「小津は二人はいらない」という上層部からの意向を受けてPCLに移籍した。今の東宝である。
しかし、戦前の作品を見ると小津安二郎とはまったくテイストが違う。松竹蒲田の所長だった城戸四郎はどこを見ていたのだろう。戦後に「浮雲」を作って、小津に「これが今年のベストだろう」と言わせた。比較してみると、俳優の使い方が対極的だ。あの「晩春」の原節子に生活臭さの漂う主婦の役を与えたし(めし)、夫の行状に悩む妻(山の音)、そして、ラストシーンで風船に戯れるような女性(驟雨)を演じさせた。

小津はすごい監督だという見方は変わらない。しかし、昨日見た成瀬の二本の映画、戦前(昭和10年~12年)を見て、とても新鮮だった。二本とも女性にフォーカスした物語になっていて、あの時代によく作ったなという印象を持った。当時の家父長制度に対する反抗を描いている。
「家名」の押し付け、世間に対する面目などの「家」のもつ強制力に反抗する女性たちだ。「女人哀愁」と「噂の娘」の二本。なんか古めかしいタイトルだが、見ていると、嫁ぎ先の威圧感や、滅んでいく老舗の話などは、今でも通じるテーマに思える。

既成の制度に反抗する娘たちに対して、老人や夫は、「ああ、もう時代は変わったな」と呟く。こんな光景はいつの時代でも似ている。そして、この二本の映画でキーワードになるのは「お金」だ。小津の世界では描かれることが稀だった。

そして、それに加えて面白いのは、もう消えてしまった町の風景がスクリーンに描かれることだ。ファッションもそうで、ああ、こんな服装の人たちがいたな、とか思う。何か逆に新鮮さを感じる。
あの頃の映画作りの職人たちはすでに消えているのかもしれないが、映画に対する情熱だけはしっかりと伝わってくる。
いいものを作るにはまず情熱しかない、と思える映画人の矜持が伝わってくる。温故知新だ。
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# by wassekuma | 2017-05-02 10:05 | 映画  

ある島の物語

葉桜が美しい季節になった。
満開の桜も視線を釘づけにするが、淡い緑色の葉に囲まれた桜も風情があって、また来年、と挨拶しているように見える。そして、風に散る桜の花びらも小さな川には花筏をつくっていて、いい感じになる。

今月の初めに夙川が近くにある西宮の実家に行って家族で花見をした。愉しかった。それから京都の円山公園に出向いて枝垂れ桜の風景を愉しんだ。しかし、外国人の多いこと。すごかった。

今は、書いている評論が終わりかけていて、部屋の中には参考にする本が散乱している。
島尾敏雄に関する評論だが、長さが難しい。400字詰原稿用紙の70枚以内という規定の応募原稿。
どうしても長くなるので、刈り込み?が大変である。あの金正恩のような刈り込み?

学生時代に集中して読んでいた作家の評論だ。去年から、島尾の妻のミホについての「狂う人」という本もでているし(梯久美子氏の労作)、今年は島尾の生誕百年ということもあってか、7月末には島尾ミホの本を原作とする「海辺の生と死」が映画化されて上映される。満島ひかりがミホの役をやるようだ。島尾ミホの関連本も数冊出ている。ちょっとしたブームかもしれない。

評論の冒頭では武田泰淳の作品について触れている。なぜかというと「恥」の感覚がこの論考の主調低音のようになるからだ。武田の初期作品にある戦争中の自分の罪、そしてそれに対する「審判」の意味を考えて導入した。島尾は「死の棘」という私小説と名付けるにはためらうような小説を書いた。妻の狂気であり、家庭の崩壊だ。そして、それは自分の不行跡に起因している(愛人問題)。
おそらく夫婦の争闘をここまで描いた作品は空前絶後と言ってよいだろう。この長編を島尾は16年かけて書いている。小説に出てくる伸一とマヤという二人の子どもも重要な登場人物になる。
実際はこんな家族だった。
e0208107_11362860.jpgこの写真の雰囲気は穏やかなものだが、この家族の歴史は熾烈なものだったと思う。島尾は私小説の形態をとりながら何を書きたかったのか。題名の「死の棘」が表わすように、武田の「審判」と通底するものがあるような気がしている。

「審判」と「死の棘」は、二人の戦争体験なしには生まれなかった作品だろう。武田は戦時中の非人道的な経験があるし、島尾は震洋という特攻艇で死の直前までいってから敗戦を迎えるという極限状況を経験する。あのドストエフスキーの体験を連想するような体験だ。
そして、その時恋人だったミホも懐に小刃をしのばせて自決の準備をしていた。その光景は加計呂麻島という奄美群島にある島で展開された。

全体を美しい海に囲まれた豊かな自然の恵みを受け取る島で、島尾は部隊の隊長として住民の大平ミホと出会う。そこでの日々は初期の短編に描かれているが、強い光りの中での強烈な思い出として二人に記憶されただろう。27歳の隊長と25歳の島の娘だ。二人が死を覚悟している瞬間は島尾の作品「出孤島記」に鮮やかに描かれている。

そして、戦後になってこの二人は平時に帰還して、それからを生きて行かなくてはならなかった。この一瞬の輝きよりも長い時間が二人には残されていた。そこで事件が起きる。ミホの失望は相当に大きなものだったと思う。
「死の棘」の最後の12章で次の物語の準備のような一条の光が見える。これも事実に基づいているが、精神病院に入院するミホに付き添うように島尾も同じ病院への入院を決める。自分がどれほど彼女に非難されようとも当たられようとも同じところでの生活を選ぶ。

この作品にある「恥」と「裁き」の感覚は、現代の日本文学では稀有なものだろう。
武田泰淳は「蝮のすえ」の中で「生きて行くことは案外むずかしくないのかもしれない」と書いた。そう書いた彼は武田百合子との生活を死ぬまで続け、百合子は文章の才を示した。
島尾と暮らしたミホは島尾の死後にはずっと喪服で暮らし、若かった島尾隊長との島での思い出を綴って、この人もエッセイで評価を得た。そして、最後は奄美市で孤独死を迎えた。

評論を書いていてふと思ったのは、世界情勢での戦争騒ぎであり指導者たちの無恥な振る舞いだった。
北朝鮮に対しての防衛を強調し、アメリカ軍との連携がどうなるかという時期に、私もよく知らないような芸人たちを集めて花見の会を主催する首相がいる。うれしそうに夫婦で笑っている。今の日本はそういう国なのだ。

無恥という言葉は無知にも通じるが、間違いなく今日あげた二人の作家は「戦争」を知っていた。
そして、そのような人々は多くは残されていない。だから、彼らの子どもの世代の人間が伝えていくしかないのだろう、そう思う。
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# by wassekuma | 2017-04-17 11:36 | 文学  

「森の生活」という物語について

ようやく月末までの原稿が終わった。
74000字、400字詰めの原稿用紙換算で240枚のものだが、最後に苦戦。
これで、一区切りつけて次のものに取りかかれる。それまでしばしの休息。

世間では、今月は2月に起きた金正男の暗殺事件に続いて、「森友学園問題」、そしてWBC、稀勢の里の奇跡的な優勝、と続けて起きた出来事で賑やかな月だったなあ。
森友はキャラの立った人々が次々と現れて、まるでヴァラエティか、推理ドラマに近づく双曲線のような状態だったが、本質は「国有地の払い下げ問題」であり、「教育の問題」という二点だと思う。
同じような穴に生息していた多くのハリネズミが、距離が近づきすぎて「痛いよ、おまえ」という感じ。
大阪のおじちゃんとおばちゃんよりも、権力行使できる側が責任が重いのは明白なのだが。
忖度したとかしないとか賑やかだ。

もし、森友学園の理事長が刑事訴追されて、政治家が「ぼくたちは騙されていたんだもんね」という図式が成り立ったとしても、権力の方がよく切るカードの「自己責任」ということだろう。

まるで、トランプの「ババ抜き」のような状態だ。ハートのエースだと思っていたカードが、ババに変化して、「これをつかんじゃいかん」と戦々恐々とカードを引いている。大阪府がババカードを引いたり、政府がカードを引いたり。あげくの果てに夫人秘書が引きそうになったり。忠実な秘書だったと思うが…。やれやれ。
こんなことより、自分にとっては40年来の友人の入院手術の方が大きなことだったのだけれどね。彼は昨日退院してきて一息ついたところだ。ゆっくり休んでください。

先月から、ちょっと興味をもってアメリカの「昔」を調べ始めて、原稿作業の合間にブルースやジャズを聴いていくうちにアメリカの南部が浮き上がってきた。アメリカの南部の歴史、そして、黒人が中心となって生みだしたジャズ。今はセロニアス・モンクの曲がローテーションになっている。

そこで、突き当たったのが、H・D・ソローの「森の生活」だった。今まで読んだことはなかったが、先月帰省した時に神戸・三宮の古本屋で購入した。現在読み続けているところ。
ソローという人は19世紀の初頭から南北戦争の頃まで生きた思想家で、メキシコとの戦争に反対したり、奴隷制度を批判したりした。40歳半ばで結核のために亡くなったが、その後に様々な人に思想的な影響を残している。この系譜がマーク・トウェインに繋がっていると考えてよいかもしれない。そして、20世紀のW・フォークナーに続くのだろう。

彼がウォールデンという池の近くで生活した記録が「森の生活」だ。都会の暮らしから森の中での生活を選んだ。一件の家を手に入れ、豊かな自然に囲まれて森で暮らした人だった。森(の)友を連想しないように。もう、この話からは離れているので。

ソローの肖像が残っている。ヘンリー・デヴィッド・ソロー(1817-1862)。
e0208107_9201548.jpg去年、青森県の深浦にある十二湖を歩いた時に、橅の林の美しさに驚いたことがある。雨上がりだったせいもあって、湖を囲んでいる橅の木々が淡い緑色を光らせながらぎっしりと立ち並んでいた。静かな風景だった。こんな木々の中で目覚めて、夜は木立の上に拡がる夜空を眺められたらと考えた。

こんな生活をマサチューセッツ生まれのソローは選んだのだろうか。文庫本で2冊にわたる著述の中で基調低音のように、富と虚栄に沸き立つ都会の人々を批判している。
2年半ほどの生活だったが、それから150年がたっても貴重な記録だと思う。実は日本でも地図上ではこのような空間の方が圧倒的に多くを占めている。東京や大都市のの高層ビル街は、地図の上ではボールペンの芯の程度しか示されない。

もちろん、森の生活が桃源郷であるということではない。都会で生活するほうがずっと楽だな、ということもあるだろう。まして、「村」の生活には様々ないやなこともある。「村八分」という言葉は死語かもしれないが、いろいろな噂話や悲惨な物語が村には多く転がっている。
そして、今流行している「忖度」という言葉も、川の流れの渦のようになっている。そんな「村意識」で選ばれる国会議員が多く存在しているし、この人たちは地元(選挙区)を大事にする。いい忖度、わるい忖度?
参考資料:首相夫人が名誉顧問になっている「むかつくダブルマラソン実行委員会」というのがあって、何がむかつくのか、と調べたら山口県長門市にある地名だった。ま、そんなことだ。

今思い出してみても、あの時に見た橅の林が与えた感動は別物だった。自然は作為なく姿を見せ、人間を感動させるために存在しているわけではない。記憶を辿りながら、今の時期にあの森はどうなっているのだろうか、とふと思う。きっと、雪はまだ完全に溶けてはいないだろう。
そんなことを思いながら、「森の生活」を読んでいる。その隣には、再読するつもりのMr.南部の作家、W・フォークナーの「八月の光」が転がっている。

そして、とりあえず脚が元気に動くうちにいろんなところをちゃんと歩いていかなければな、と思う。
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# by wassekuma | 2017-03-29 09:20 | 文学  

小説の日々

もう三月も半ばに差し掛かっている。
速いなあ、時間の過ぎるのが。
伊豆で河津桜を見る旅はしてきたし、来月は実家に帰って夙川の桜を見る予定だ。
季節の移り変わりを見ながら旅をする。空いている時間のおかげだ。

自分でやりたくてやっていることに小説を書き続けるという作業があるが、個人的には、少し複雑な感じがつきまとう。
今年になって少し嬉しいことなのだが、以前に送稿した二つの小説が新人賞の予選を通過した。去年、一昨年も一本ずつ予選は通過したのだが、そこまで。
自分では予選通過の魔術師とふざけているが、まあ、頂上までには届かないのだろう、とあせることもなく、今月末までには二本の作品を送って、しばらくお休み。

基本的には小説は想像力を駆使して書いていくのだと思うが、流儀はいろいろとある。自分の経験をそのままに書いて「私小説」という意匠をはめることもできる。
今、ポール・オースターの「冬の日誌」を読んでいるのだが、この作家とは少し長めにつきあってきたので、前作の「写字室の旅」にも感じたが、自分の「老い」を追憶として語ることを続けているようだ。

「冬の日誌」でも五歳のときにこんなことがあり、それから、こんなこと、と少年時代のことを書き綴る。彼の実体験に精確に基づいているかどうかはわからない。読んでいて、ヘミングウェイが北ミシガンで過ごしていた少年時代を描いていることを連想した。年をとると、こんな風になるのかな。

最近話題の村上春樹もオースターと同世代だが、「騎士団長」はこんな作風にはなってはいないようだ。飛び交う情報から見ると。ま、読まなきゃ始まらんのだが。まだ読んでないし、読むかどうかもわからない。

なぜ、物語や時代精神の影響が小説から薄れているのだろうか。考えてみたら、なんとなくわかる。物語は、コミックやアニメーション映画の方が受け入れやすいし、時代精神などはテレビなどで流れる出来事の方が、よほど文字面を追うより面白いからだろう。面白いよ、正男事件や、森友学園事件は。登場人物も濃いキャラだし。流れる情報に対して無条件に眼を吸い寄せられる人たちが多いのが現代だろう。

まあ、それでも昔風に言うと原稿用紙を文字で埋めて行く作業をする人も多くいる。自分が運よく予選通過した新人賞でも2000名前後の人が応募している。しかし、「純文学」というわけのわからない符牒を貼られた領域は、もう限界集落に近いと思う。どこかで突破できるか。

まあ、そんなことを考えながら書いてはいるのだけれど、前にこの欄で述べたように、黒人の女性ダンサーからジャズの分野に入って、今はジャズの原型のような昔にまで遡っている。その紹介。
ビリー・ホリディに影響を与えたと言われるベッシー・スミス(1894~1937)。43歳で死去。
これもYou tube。

こんな感じの曲をバックグランドとして聴きながら、読んだり書いたりしている。この歌声自体は私の父親の生まれた頃のものだ。1920年代。よく残ってたなあ。
確かこの曲はエリック・クラプトンなども歌っている。

この時代の黒人のミュージシャンのことを調べて行くと、まさに「物語」となる。
このベッシー・スミスの急死も、黒人は入れないという病院が原因となるような出来事だ。交通事故で重傷を負った彼女が運ばれたのは白人専用の病院だった。治療を断られた。酷い話だ。フランスから送られた「自由の女神」はどこを見ていたのだろう。
ブルースを歌うしかないような時代だった。でも、今でもアメリカという国は学習をしない。
マイケル・ムーアの「シッコ」に描かれている。アメリカの病巣は根が深いのだと思う。

で、最近トランプのネタが影をひそめているようだけど、どうなってるの?
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# by wassekuma | 2017-03-09 18:43 | 日常  

エラを聴きながら

トランプネタに加えて、また大きなニュースが飛び込んできた。
金正男の暗殺事件。映画のプロットのようなことが起きた。
まあ、北朝鮮は王国というより巨大な宗教集団と考えてもいいので(だって、反抗分子の粛清や武器の調達なんて1995年に日本で起きた宗教団体の事件を思いだすでしょ)、ほとんど中世から戦国時代の権力のありように近似している。弟を殺したりしたのは織田信長だったっけ。
でも、儒教の国では、兄に敬意を払うんじゃなかっただろうか。フーテンの寅さんのような兄であったとしても。
寅さんと違うのは、おいちゃんの家に戻って妹に会ったりすることが二度とできない境遇だったことだ。
入国拒否ってやつですか。

まあ、そんなことを横目で見ながら、いまは3月末までに仕上げる原稿に取り組んでいる。山で例えると7合目を越えたところだが、焦るわけではなくゆったりと書くことができる。
バランスがとれるのは、今自分がはまっている本をシリーズを読んでいくことや、原稿に向かう時に後から聞こえる音楽を、これもまたシリーズでまとめて聴くことだったりする。

前回にジョセフィン・ベーカーのことを書いた。そして、彼女の伝記を読んでいくと、年老いた彼女があの1963年のワシントン大行進にも参加していることを知った。マーティン・ルーサー・キングの有名な演説を聞いていたわけだ。あの場所で。

ジョセフィン~虐げられた黒人の歴史を背負わされた踊り子。ジャズシンガーでもビリー・ホリディやその後に続く、エラ・フィッツジェラルドなどを思いだした。

時計の針を戻す。40年以上前に、私は吉祥寺に住んでいて、「Funky」というジャズ喫茶にしょっちゅう行っていた。そこで、いろいろなジャズミュージシャンを知ることになり、そこのマスターと言葉を交わすこともよくあった。記憶では、一階がモダンジャズで地下はジャズボーカル専門のフロアになっていたと思う。
私は地下に行くことはなかったと思うが、その辺りは記憶があいまいだ。
草分け的なこの店には学生を中心に若い人が集まっていて、それから新しいジャズの店が吉祥寺の町に増え始めた。
近年にそのオーナーは亡くなり、残された奥さんが引き継いではいるが、昔の「Funky」の流儀ではない。
もう吉祥寺という町が大きく変わっている。

若い頃には思い入れがあって、ジャズは黒人のものだ、という意識が強かった。ビル・エヴァンスなんかも「きれいな曲だな、うまいし。ふーん」という感じだけで、コルトレーンやモンクやバド・パウエル、エリック・ドルフィーなどが私のヒーローだった。ああ、それにマイルス・デイヴィスね。忘れちゃいかん。ただ、少しお金に余裕のできた頃にはエヴァンスのレコードも聴くようにはなったが。

当時の女性のボーカルでは何と言っても、ジャニス・ジョプリンがすごい人気だった。白人だったが、フィーリングは黒人のブルースシンガーに近いものを感じていた。ジャズではビリー・ホリディ。彼女の書いた「奇妙な果実」という本も注目されていた。はい、昔話は終わり。

この年になってジャズは黒人という思いこみもなくビル・エヴァンスをよく聞くようにもなった。
そして、今の自分の部屋のBGMではエラ・フィッツジェラルドが活躍している。元気がでるからだ。
とりあえずエラで最も有名な曲をYou tubeから。この曲はブレヒトの「三文オペラ」の導入曲のはず。
Mack the knife。エラ・フィッツジェラルド(1917~1996)

汗かきである。最近ずっと聴いているのが、彼女の歌ったコール・ポーターのsong bookだ。コール・ポーターの作ったものには好きな曲が多い。
この中でもAnything goesとToo darn hot、Ev'ry time we say goodbyeの三曲がお気に入り。
そして、彼女がベルリンでやったライブ盤もよく聞いている。How high the moonのスキャットはすごい。

ということで、今、オーディオの脇には黒人ジャズシンガーのCDが積み重なってるというわけだ。ニーナ・シモンやビリー・ホリディも。

もともとジャズの発生はゴスペルからブルースという流れだったはずだ。この辺りの音楽については駒沢敏器の「ミシシッピでは月まで狂っている」という本で読んだ。この本の中で、著者はハワイやアイルランドという辺境エリアの音楽のことを現地で調べていて、面白かった。
音楽もそうだが、少数を見捨ててはいけない。そう思う。

若い頃には太った汗かきのオバサンが楽しそうに歌ってるな、という印象だったが、考えりゃ、今の自分よりは20歳も若い女性の映像だ。ベルリンでのライブでもしきりに発する「Thank you!」という声が若くて可愛い感じだ。
そんなわけで、こんな歌声に包まれながら、また机に向かう。
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# by wassekuma | 2017-02-18 13:58 | 音楽  

ジョセフィン・ベーカーという踊り子について

短い旅から帰ってきても、テレビのニュースなどを見ると「トランプ案件」が賑やかに伝えられている。
もうこの人はトリックスターとしての立ち位置だけではなく、アメリカの抱えている問題を世界に伝える役割を持っているようだ。そして、それはアメリカにとどまらず、世界を写す鏡のようになっている。ヨーロッパにも波及し、「グローバル」という言葉がばねのように跳ね返っている。マイ国家という形で。

政治権力やメディアの劣化、そういったものがだんだんと笑い話の領域に落ちこんでいく。しかし、その中で厳しい現実が浮かび上がるのも事実だ。

最近、ニュースで見たのだが、バドワイザーのCMでドイツ移民がアメリカで屈指のビールを作ったとアピールするものがあったが、すぐに頭に浮かんだのは、映画監督のビリー・ワイルダーのエピソードだった。ザムエル・ヴィルダーという名のユダヤ人の男がナチスの手から逃れようとアメリカに逃げた。祖母と母親は亡命を拒否して強制収容所で死亡している。

彼は税関を通る時にユダヤ系であることがチェックされたが、許されて管理官から「まあ、いい映画を作れ」と言われたという話が伝わっている。確か、彼の自伝にもあったと思う。その後、「アパートの鍵貸します」などの多くの佳作を作る映画監督になることができた。ドイツからアメリカに移民して成功した人間は多くいる。で、トランプの祖先は?

今日テーマで取り上げるジョセフィン・ベーカーは、その逆でアメリカからフランスに逃げるように渡って成功した黒人女性だ。
ヘミングウェイやフィッツジェラルド、J・ジョイスまでを受け入れていたフランスの1920~30年のことを調べていくうちに、この女性芸人にぶちあたった。文学にはそういった性質がある。何かを調べていくうちに、社会状況やその時代の文化、そして支えていた時代精神を調べたくなる。

ジェセフィン・ベーカーが1920年代のフランスでフランス人やパリを根城にする異国の文化人に注目されていたことは知っていたが、今回いれこんだ契機は、高山文彦のノンフィクション「孤児たちの城」という作品だった。黒人ダンサーとしてパリに登場して多大な富を築いた彼女がビジネスから手を引く際に力を入れたのが個人として世界中の孤児を集めて部族を作ると言うことだった、という事実。12人の子どもを集めた。

「虹の部族」と呼ばれたのは、世界のあちこちから集めた孤児のことだった。日本の孤児も二人入っている。虹のようにいろいろな色で一つの帯をなすというイメージだった。多民族国家のように。日本人のアキオという少年が長男の役割を課せられた。この少年は川崎で親に捨てられた捨て子だった。秋に拾われたから秋雄と名付けられた。ジョセフィンは二人の日本人孤児を澤田美喜から引きとった。

彼女が黒人として生まれて苦労した少女時代は、同じような例を見つけることができる。アメリカの黒人迫害の歴史があるからだ。ジャズのビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドなどとも経歴が類似している。貧困と差別の悲惨な生活の中にあった。
ジョセフィンの少女時代にフィラデルフィアで黒人が多く虐殺される事件があり、その時の体験を心の中に刻印している。
彼女は7歳から働きに出て、親に捨てられたような状況で15歳までに2回の結婚をし破綻している。貧困の中にあって文盲でもあった。踊ることだけが優れていた。

芸人一座に入った彼女は16歳の頃にパリでの興行に参加する。ここでブレイクするわけだが、その時代の彼女のダンスが記録されている。You tubeはこういう時に便利だ。1920年代の映像が見られるのだから。



もうダンスというより見世物だということがわかるだろう。寄り目をするのは得意の芸だったが、この表情もアメリカで培われたものだった。白人に対して、このようなおどけ方で笑わせるということが自分の防衛にもなったと彼女は語っている。わかるような気がする。日本にも、わざと恥をかいて自分を守ろうとし、友人に見抜かれたことを書いた太宰治という作家もいる。道化の精神。

この時期のフランスではアフリカのホッテントット(コイ族)を見世物にするということも舞台で興行していた。
白人文化の中でアフリカの部族や黒人の狂ったような踊りを「見世物」にした。眉をひそめる人々もいたが、ジョセフィンに称賛の声も上がったのだ。これはジャズがフランスに流入したことも大きかった。ジャズの新しさがフランスの客に認められ、チャールストンやジャズに浮かれる人々が増えた。

ヨーロッパの多くの国を回るうちにジョセフィンの名声は上がり続ける。しかし、1930年代を過ぎると、ヒットラーに代表されるユダヤ差別が猛威をふるい黒人も排除され始める。作曲家のジョージ・ガーシュインやアーヴィング・バーリンなどもユダヤ系ということで排除される。

こんな軌跡を経て、ジョセフィンは大きな屋敷に「虹の部族」を住まわせることになるのだ。何か、この話はマイケル・ジャクソンのやったことに類似していると思う。
思えば、彼女自身が実は孤児だったのだ。幼少時代から大人の思惑で虐げられ生きてきた。見世物に甘んじて目を寄せて笑いをとり、狂ったように踊った。彼女は孤独だった。

e0208107_17413044.jpgこれが孤児たちに取り巻かれたジョセフィン・ベーカーの写真だ。観光客がこの屋敷(というか城)に来て見学していった。子どもたちの気持ちは複雑だった。かれらは「見世物」になったのだから。義母と同じように。かれらには幸福とは言えない未来が待っていたのだ。育ててもらったという気持ちもあるが、義母のエゴイズムにも悩まされた。自分の思い通りに子どもを育てようというエゴイズムだった。そして、彼女に自分の子どもはいなかった。

晩年のジョセフィンは惨めなものだった。借金のために全ての資産を売り払った挙句に、住んでいるアパートも追い出される。そして、困窮の中で68歳の生涯を終えた(1906~1975)。最期は、まるで子ども時代の振り出しに戻ったような境遇だった。過去の名声だけが残っていた。最後まで支援しようとしたのはグレース・ケリーだった。あのモナコ王妃になった女優だ。
なぜ、王妃は貧困の老女を支援したのか。慈悲心なのか、どうか。それはわからない。

彼女の晩年は淋しいものだったし、彼女の生誕100年のイベントを行った際には、孤児の中で参加したのは長男のアキオだけだった。その他の子どもたちは参加しなかった。これも、ある家族の歴史の一つなのだ。
彼女は踊りから離れて歌手として活躍した時期がある。シャンソンを歌った。その時にヒットした「私は二つを愛している」というタイトルの歌がある。二つとは故郷のアメリカと生活しているフランスのことだった。

今のアメリカに移民として渡って来た人々にも自分の暮らしてきた国への郷愁はあると思う。
どんなに荒れ果てて廃墟のようになっていても、そこで暮らしていた記憶とともに望郷の念はあるだろう。
そして、その辿りついたアメリカでは、特定の異国を犯罪者集団と色付けをする大統領がいるのだ。実は国家の基盤は移民の多様性で構成されているという認識もない。企業に国外での生産をやめろと言ってはみたが、娘のイヴァンカが経営する会社のブランドの服にはMade in Chinaのタグが付いている。ありゃー。
でも、これは笑えないけどね。
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# by wassekuma | 2017-02-08 17:41 | 社会