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島尾敏雄という人 3

昨日まで西宮に帰省していて、60年近く前に生活をしていたところを歩いて見た。生まれてから5歳まで生活していた武庫川の近くだ。このあたりに父の会社の社宅があり、そこで私は幼稚園の頃まで育った。
阪神電車の武庫川駅の尼崎側が生活圏だった。
その後に、この川の町から離れて広島に引っ越し、また尼崎に帰った頃(小学校3年~6年くらいまで)に、時々遊びに行っていた。まだ、その頃は川で泳ぐこともできた。

父に手をひかれて歩いた映画館への坂道、川岸で遊んだあたり、幼稚園や神社などの記憶をたどりながら歩いたが、変わっていなかったのは、社宅の近くにあった病院、そして大きな楠で有名な神社(この地域は楠が多い)、友だちの歯科医院くらいで、あとは昔の風景とは全く違った様子になっていた。

駅前の喫茶店に入り、老主人に訊くと、映画館はとっくになくなり、幼稚園もどこかに移転している。高校生時代の友人の米屋もマンションになっていた。
もっとも変わったのは武庫川かもしれない。幼児だった頃の武庫川は、川岸から裸足で歩いていって流れの冷たさを感じられるような川だったが、今では護岸工事でしっかりとしたコンクリートで守られ、川の流れも広く豊かになっていた。川の流れは60年前から絶えず海に向かっていく。
私にとっては昭和の匂いの漂う風景だったが、それが時間とともに失われていったわけだ。

父は鉄鋼関係の仕事で忙しく働いていたし、母親も炊事や洗濯などで社宅共同の洗い場を行き来して動きまわっていた。若い両親にとっても戦後を生き抜いていくためのエネルギーが必要だったろう。
その頃のことが残影として浮かび上がる。

前回述べた戦艦大和の生き残りだった吉田満は戦後は日本銀行に入行し経済界で活躍した。島尾は、一度も出陣しなかった南の島から、父親のいる神戸の実家に戻った(母親は彼が17歳の時に亡くなっている)。それから作家をめざしての修業時代が始まる。島で知り合ったミホとの結婚は両家の反対もあり難航したが、なんとか六甲で結婚式を挙げた。

それからの島尾の文学的な業績は三つの分野に別れる。戦争体験から生まれた作品、妻の精神疾患の日常を描くもの、夢をテーマとした多くの記述、の三つだ。
妻のミホの精神障害は島尾の行跡から生じている。「死の棘」を読むと、妻の異常性と島尾の対応の異常さが描かれているが、二人で千葉の国府台の病院に入院したりしているのを見ると、たがいに反響しあっている様子が読みとれる。

二人の子どもも含めて辛い戦後を生きている。ミホが穏やかになって笑うと、島尾もゆったりとした気持ちで笑う。それが、いつまで続くかという話だ。すぐに破綻する。
おそらく、死の淵をのぞきこんだ二人にとって、南の島でのエピソードは、いつも帰りつく輝きとして残っていたのだろう。神戸から東京の小岩に引っ越してからの生活でも、ミホの心象は加計呂麻島に行き来していたのかもしれない。白い軍服の島尾隊長の記憶に。
それが、戦後には生活破綻者のような頼りがいのない男になっている。そのやるせなさは感じただろう。

父も残された昭和を生き延びた。昭和天皇が崩御した時には父が亡くなって10年近くが経っていた。今のように豊富なモノに囲まれ、次々と新しいモノが生まれる時代ではなく、電化製品一つを夢見るような時代に両親は生きた。多くの戦争経験者と同じように。
そして、敗戦国に帰還した彼らは、戻れなかった戦友も含めて何かを背負って生きていたのではないか、と思う。それはそれで、手ごたえのある一生だったのではないか。

島尾敏雄は70歳を前にして亡くなり、妻のミホはそれから20年を生きて87歳で亡くなった。鹿児島の奄美市で生を終えた。晩年の二人は、初めて知り合った南の島に近いところで、穏やかな生活を送っていたと思う。
島尾ミホに取材したノンフィクションライターの話では、夫の死後は誰かと会うときにはいつも喪服を着ていたそうである。20年の長きにわたって喪服の姿で通した。もしかしたら昭和20年の敗戦の年に着たかもしれない喪服だ。この心の持ちようは情念といってよい、と思う。

加計呂麻島で島尾は見回りと称して隊を出て、海岸でミホと時を過ごす。隊長としては軍規に抵触するような行為だが、部下たちもそれを知っていた。死を目前にした若者の心理が、波の打ちつけるような危なっかしい海岸を走らせることになる。どうせ、死ぬ身なのだから、と28歳の青年は思っていただろう。まさか戦後の40年間を生きるとは考えない。
でも、出発は遂に訪れずに、隊長の職を解かれて茫然としたまま神戸の実家に帰ることになる。
そこで辛い戦後の生活が始まる。

同じような若者が戦争に巻き込まれて生死を分けるのが戦争のありようだ。父は幸いなことに生還した。この熾烈な経験をした人々の多くは地下に眠る。伝えられる者たちも少なくなっていく。
変わっていく川の風景のように失われたものは忘れられる。
最後に旅の写真をつける。
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武庫川の写真。魚を釣っている人が数人いた。おそらくハゼを釣っているのだろう。小学生の頃、私もよくハゼを釣りに行った。時々かかるドンコという名の黒い小さな魚は、持ち帰っても飼っていた犬も食べなかった。
もちろん、臭くて人間も食べられない。持って帰るな、と母に叱られた。そんなことを思い出した。

by wassekuma | 2014-09-18 13:50 | 文学  

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