小さな国の光と影

今月の上旬から半ばまで中欧の旅に出かけた。
ウィーンの空港からハンガリーのブタペストに移動し、それからチェコのプラハ、オーストリアのザルツブルク、そしてウィーンに戻って来るという旅だった。小さな国の国境を越えて回ったことになる。

人口がオーストリア877万、ハンガリーが1006万、チェコが1058万という規模だ。ウィーンという都市で187万。東京23区の人口921万、一都三県(東京・神奈川・千葉・埼玉)で3164万という人口と比較すると、国の規模がわかる。
しかし、日本はほんとに一極集中だなあ。そう思う。
中欧においては東京から神奈川への移動が国境を越えるようなものなのだ。
言葉が違い、文化も違う。共通の基盤はキリスト教であり、王政の長い支配があったことだ。ハンガリー・オーストリア帝国。ハプスブルク家の支配は650年に及ぶ。

大きな権力の下で歴史を作ってきた国々だ。現代史として見ても、旧ソ連の支配下にあったハンガリーとチェコ、そして今回は行けなかったポーランドは、1956年のハンガリーから始まって12年周期で抵抗運動があった。1968年の『プラハの春』と呼ばれた抵抗運動、ソ連軍の戦車が何千台も走った通りにも行ってみた。

最初にハンガリーで、現地の女性ガイドから国の人口は1000万程度だが観光客は年間4000万人だ、と聞いて驚いた。4倍か。日本の人口で按分すると4億人の観光客。しかし、一言で観光立国とは言えないだろう。先に述べたように、東京から神奈川への移動と考えれば納得もいく。小さな国の間で行き来しているようなエリアなのだろう。
東京の人間が横浜の中華街に行ったからといって観光客とは呼ばない。

また、いつものように旅先での自由時間をつかって裏通りや細い脇道に入る街歩きをしてみた。そこで生活する人々の風景が見たいからだ。市場の鮮やかな果物の色彩、多くの種類のソーセージがぶら下がる店、飛び交う言葉、なぜか不機嫌そうな店員、工芸品を並べて居眠りしているような老婆。ブタペストやプラハには大きな市場がある。物価はそれほど安くはない。

裏道を歩いたブタペストは、何か暗いような印象を持った。それが何なのかわからない。夜になると、無駄と言えるくらいの大きさを誇る国会議事堂をライトアップしてドナウ川に光が反射する。美しい風景なのだが、この派手な建物は三分の一しか使われていない。議員数の規模から見たら当然だろう。なにかアンバランスなのだ。

そこで、ふと思った。この小さな国々は遠い昔の栄華によって残された遺産相続によって国や文化を守っているのだ、と。ヨーロッパの広いエリアを650年支配した王朝、その権力が財力を行使して王宮や教会を作った。それが、21世紀の今でも観光資源として国に収入をもたらせている。そのヨーロッパの繁栄の光の後ろにはやはり影があって多くの悲劇が残されている。二つの世界大戦の痕跡も多く残っている。ナチスの足跡も。

それにしても気候に関しては、やはり異常気象を感じた。緯度の関係などで相当な寒さを想定していったのだけど、なんと初夏なみの暑さ。9月のほうが寒かったそうだ。準備した冬物の衣類はかばんに入ったままだった。雨も極端に少ないので、ドナウ川の水位も落ちていた。世界中の傾向かもしれない。自然の異常な変化が人間社会を翻弄する。

帰ってから写真の整理をしたりして、旅の思い出を反芻しているのだが、街の中で交流した人々のことも頭をよぎる。ウィーンでは親切な若者に助けられた。

今回の事件だが、夜のウィーンを一人で歩いていて迷路のようなところに入り、もとの大通りに戻れなくなった。帰国する前日のことだ。大きな建物、オペラ座やホテルを照らし出すライトアップの光の渦に巻き込まれたような感じだった。方向音痴の弱みが露骨に出た。どこに行っても光の洪水に出会う。
その時にカフェで働いている青年にホテルに戻る道を訊ねたら、中東系の若者で、よくわからない、と言う。その後に、彼が呼んで先輩らしき二人の人が一緒に教えてくれた。三人とも中東からやってきている仲間のようだった。丁寧に道を押してくれた。そして、最後に三人で頑張れというような調子で送りだしてくれた。これも一期一会だ。

プラハでカフカの生家にも寄ったが、まるでカフカの作品のように目的地が見つからない彷徨を一時間ほど続けたことになる。これも思い出だ。

ようやく時差ぼけからも解放されて日常が戻ってきた。今月末までの応募原稿も終わったし、さて、これから日本の秋を愉しんでみようか、と思う。
次のブログでもこの旅で考えたことを書いてみるつもり。あ、もう11月になるのか。はやいなあ、もう今年もあと二か月か。

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# by wassekuma | 2018-10-28 08:05 | 日常  

われらの時代

今日のタイトルを見て、ヘミングウェイを連想する人と大江健三郎を連想する人がいると思う。いや、二人とも浮かぶ人がいるかもしれない。
この「時代」という言葉は、作家における時代へのイメージを表わすし、文学が社会との関わりで得るものを浮かび上がらせる。
そして、「われらの」という言葉には作家の思いが含まれている。

なんで、こんなことを考えたのかというと、先日箱根の温泉に同世代の友人たちと集まった時に、みんなで喫茶店で話していてふと思ったのだった。
「昔の匂い」という話になった時だ。今は加齢臭という言葉や何かの匂い、例えば車内、例えばスポーツを終えた子ども、部屋の匂い、煙草の匂い、などを消臭する薬品のコマーシャルが多いという話題になり、こんな時代になっているということになった。メンバーは1950年生まれの男性が5人、還暦を過ぎたばかりの男性が1人という構成だった。

匂いと書くこと自体、嫌われるものについては、正確には臭い(におい)と書くべきかも知れない。実際に今起きている言葉のいじめでは「臭(くさ)い」という言葉が効力を持つようだ。何かの札のように。

老人(?)6人の話は、おれたちの時代には、と繋がっていく。季節ごとに匂いがあったような記憶。冬の落ち葉焚きの匂いや、それぞれの家の中に漂う匂い。もちろん、今の水洗トイレにはなかった臭い、秋の花はよく匂うし、学校に行く通りの氷まで匂うような気がした。冬が今より凛冽だったのかもしれない。耳が痛く、息をする鼻が痛かった。そんな冬だった。

こんな話をしているメンバーは年齢の半分以上を昭和という時代に生きていた。昔から活躍していた有名人が亡くなると「昭和が終わった」という表現をメディアは続けて使う。何回終わったら気がすむんだ、とも思うが、とりあえず終わらせている。

時代というと永井荷風の言葉を思い出す。あの関東大震災の際に、「われは明治の児ならずや」と吟じた言葉だ。この関東大震災は荷風に私淑する谷崎潤一郎の人生の転換期ともなっている。二人とも滅びた東京の風景を見ている。
そして、荷風は江戸の風情のなくなった光景を愁嘆し、潤一郎は関西へと拠点を移す。そして、関西文化の漂う作品を生み出していく。

今の日本の状況を見ていると、「われは昭和の児ならずや」と呟きたくなる。
前にも、買った道具の不具合をサービスセンターというところに電話したら極めて人工的な対応をされた。機械による音声(女性の声)だけの対応で、これがひょっとしたらAIってやつか、と思った。声の温度、間のニュアンスなどの対話のポイントが抑えられない。
何よりも機械的な声が生理的に気味が悪い。そして最も困ったのは、質問の後に、必ず「はい、いいえでお答えください」と声が伝わってくる。「はい」とか応えている自分がいる。なんとも間抜けな会話だ。

このような社会環境を私は「われらの時代」とは呼ばない。SFめいた小説を構想するにはいいかもしれない。近未来の悪夢のような交響曲の序奏を聴いている気がする。
そして、考える。「われらの晩年」をどのように見ていくのか。
先に述べた二人の作家をロールモデルとして考えると、熱海で優雅に暮らしながら最晩年にも瘋癲老人として書き続けた谷崎潤一郎か、あるいは息を切らしてまで歩きながら、さびれた裏町に入ったり、好きな浅草や銀座の町を徘徊した永井荷風か。
自分はどうやら後者のグループに属するようだ、と思う。敬意をもって読んでいる宮本常一の存在も大きい。この人のことは以前にも書いた。多くの島を含めて日本国中を歩き回って記録し続けた民俗学者だ。

「われらの晩年」の基本は、やりたいことをやりたいようにやる、という黄金律だと思っている。それも、できるうちに、という言葉が付け加えられる。

ということで、明日から10日ほど中欧方面の旅をする。
一期一会の風景とそこで暮らす人々との一瞬に触れるために。そして、なによりもそこに飛び交う自然な人間の声を聴いていくことが楽しみだ。

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# by wassekuma | 2018-10-07 16:56 | 社会  

ジョージアの映画を見たという話

はやいものでもう10月を迎える。
このブログ?のタイトルは自分の誕生月にもからむのだけど、いやあ来月には68歳か。
昔のイメージだと完全隠居だ。歌にもあった。村の船頭さんの歌で、今年60のおじいさんという歌詞だった。年をとっても櫓を漕ぐときは・・と続いていた記憶がある。
子どもの頃にこの歌を知り、回りを見渡すと、確かに「隠居」然とした老人の風景があった。おとなしく町の中にいて時々散歩をするくらいのイメージだった。盆栽の手入れなんかしたりして。

今では、「隠居」という言葉は死語だろう。なんかいい響きのようにも思うけど。時代は変遷してシルバー世代とか熟年という名称まで生まれている。
こんなことをぼんやりと考えたのは、今月動き回っている時のことで、神保町の映画館でジョージアの監督の作った映画を観た時だ。

9月は個人的にいろいろと忙しいことで日々が埋まっていたのだが、その中でも好きな旅をすることと映画を見ること、そして月末が締め切りの応募原稿を仕上げることだけは合間をぬってやっていた。まあ、これが私の隠居生活だ。

神保町の岩波ホールに行って、またかという印象を持ったのはロビーを埋めている人たちがほとんどが自分と同世代で、昔は私と同じように名画座を回っていたような感じの人々だった。1970年代頃の話。
もし話しかけたら、新宿、渋谷、池袋にあった名画座の思い出話ができそうである。フランスのヌーヴェルヴァーグと称された監督たちのこと、イタリアのフェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニの映画。ヒッチコックがいてウェルズがいて北欧ではベルイマン、ポーランドではワイダを中心とした監督たち、というように多くの映画が群れをなして思い出される。てことで、まあ黴臭いような話だ。

映画館の中で光と影の銀幕をみつめていた。今の若い人たちがゲームソフトに熱中するのと同じような情熱をもった人間がいたということだ。私も、映画館を三軒ほどハシゴしたことがあったくらいだ。なぜかこういう記憶は鮮明。最後はオールナイト5本立て。加藤泰監督の特集だった。

今回はジョージアのテンギズ・アブラゼという監督の<祈り>三部作を観たのだが、見ごたえのある映画だった。グルジアという名称が馴染みがあるのだが、いつの頃からかジョージアと呼ぶようになっている。相撲の「栃ノ心」の出身地だ。
ぼんやりと覚えているのはソ連の時代に政治マタ―で名前が出ていたが、どこにあるのやら、という感じでよく知らない国なのだ。

ソ連の時代と言えば、アンドレイ・タルコフスキーを思い出す。「ノスタルジア」「サクリファイス」という強烈な映画を作った監督だ。
今回、このアブラゼの映画を見て、タルコフスキーの雰囲気を連想した。ジョージアという国の風景や人々の描き方は、タルコフスキーやギリシャのアンゲロプロスの映画作りを連想させる。祈り~希望の樹~懺悔という三本に通底するのは、権力や共同体の縛りによって排除された人々の姿だった。これが予告編。

この監督は1994年に70歳で亡くなっている。三部作は20年近くをかけて撮られた。部族の闘いや因習の持つ圧力、ソ連邦の時代の政治的な弾圧が三部で描かれているが、権力との軋轢の中で希望をもって生きていく人々の物語だ。
映像としてはインパクトの強いシーンが多い。

こんな映画をシルバーシート状態で見ていた。見終えて帰る際には杖をついている女性を何人か見かけたし、歩き方のおぼつかない老人もいた。
それぞれがある種の情熱をもってこの場所に集まっているのだ。見たいものを見る、という単純な動機で。この単純さが、おそらく「隠居」の核となるのだろう。見たいものを見て、やりたいことをやるということ。

そんなことを考えて、ふと永井荷風のことを思い出した。40歳から隠居した作家だ。この人は日記と散歩で有名なのだが、ある書き手が彼の散歩について、こんな印象を述べている。
~荷風さんはぼんやりと歩いているように見えたでしょうが、よく見るとぜいぜいと荒い呼吸をして歩いていたのではないだろうか。かなり無理もして~。

そうだな、と思う。やりたいことをやるのに必要なエネルギーというものはある。
自分のやりたいことをやるのは自分しかいないのだから。
テンギズ・アブラゼもきっとこんな思いでこの三部作を仕上げたのだろう。

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# by wassekuma | 2018-09-23 16:17 | 映画  

雷雨のあけた朝に

いやあ、昨夜の雷雨はすごかった。
家の近くを流れる目黒川も水位があがって騒ぎになっている。
今年の異常気象は以前にも触れたけど、今年の夏はやはり変だ。
猛暑はまだまだ続きそうだし。
ということで、おはようございます。

そんな日々を過ごしながら、青森の旅から帰って、久しぶりに映画館を巡っている。恵比寿では、イングマール・ベルイマンの二本の映画を見た。「野いちご」はもう何度も見ているが、この年齢になると主人公の老教授の様子が具体的に迫って来る。
一昨日は、神保町の岩波ホールでジョージア(グルジア)のテンギズ・アブラゼという監督の三部作の二本(「祈り」と「希望の樹」)を見た。最後の一本はまた見に行くつもり。

この映画についての話は次回にまわすが、「そうか、こんな映画監督もいたのか」という発見について思ったこと。知らないことを知ったということ。
そこで、最近知ったアメリカの作家の作品について。
詳しい人は知っていると思うが、リチャード・パワーズという作家はまったく知らなかった。ふいに出会った作家ということだ。いやあ、はじめまして。

同世代のアメリカ作家ではポール・オ―スターは読んでいるのだが、もっと世代が上にあたる作家の方が、いわゆる「マイブーム」になることが多かった。
このパワーズという作家は雑誌の書評を読んでいて、ちょっと読んでみるか、という気になった。「舞踏会へ向かう三人の農夫」という長編だ。

まず、タイトルでわくわくする。農夫?舞踏会?これを小説としてどう展開するのだろう。読んでいくと、ある写真が浮かび上がってくる。
アウグスト・ザンダーというドイツ人の写真家で第一次世界大戦の前後に活躍したようだ。肖像写真を中心に撮っている。この一枚の写真からインスピレーションを得て、作家は作品に向き合うことになる。
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これが、その写真。野原の道に三人の男が立っていて、ステッキをついたままカメラに目を向けている。これから舞踏会に向かうために正装をしていて、気取った雰囲気が漂っている。作家はこの三人を兄弟に見立てて、物語を作りだしていく。小説の中では世界大戦のことやユダヤ人問題のことなどが組み込まれていくのだが、もう一つの流れとして、1984年のアメリカを背景とした小説が並走することになる。
どうも、この作家は時間(時代)を越えて行ったり来たりする物語が好みのようだ。
第一次世界大戦が終わって70年がたっても普遍的な問題は残されている。

この小説の中ではキ―になる実在の人物がいて、それはヘンリー・フォードでありフランスのサラ・ベルナールなのだが、彼らのことも詳細に書いていく。車社会の草創期の帝王だったフォードが第一次世界大戦とどう関わったのか。アメリカがヨーロッパに首を突っ込むことはない、という反戦の雰囲気がどう変わって行ったのか。地下茎が拡がるように物語を進めていく手法だ。

ネットで調べて見ると、リチャード・パワーズは還暦を過ぎたくらいの作家で、ボストンで企業に勤めていたが、ボストン美術館でこのザンダーの写真展を見て作家になろうと決意して会社を辞め、二年間をかけてこの「舞踏会へ向かう三人の農夫」を仕上げたらしい。きっとすごい覚悟が必要だったんだろうな、と思う。
そんなに多作の作家でもないのだけれど、その後の作品を見ると、会社仕事で知っていたIT系の問題や音楽に特化した作品も書いている。

今は、彼の「われらが歌う時」という小説を読んでいるのだが、これは五人の家族の物語で、音楽を軸として進んでいく。ここでも、キ―になるのは、マリアン・アンダーソンという女性のオペラ歌手。1939年にリンカーンの彫像の前で歌って、それが大きな話題になった。7万以上の聴衆がそれを聴いた。話題になったのは彼女が黒人であったことによる。アメリカの公民権運動を、もう一つの物語としてからめさせていく。ワシントン大行進へとつながる話だ。キング牧師やマルコムXも登場する。

これを読んでいて、アメリカの歴史を眺めながらふと思うのだ。
「人間は時間を経ても変わらないものだな」と。トランプのような人間は遥か昔からアメリカにはいたのだ。排除が好きなマッチョな男として。そして、強いアメリカを目指すタイプ。何が強さなのかがよくわかっていない反知性の人間。

祖父が言っていたことを思い出す。彼の数少ない名言だ。
「人はどんな歳になっても発見がある。その発見に興奮しなくなれば半分人間をやめたようなもんだ」という言葉。「だからなんでもよく見ておけよ」と続けた。
70歳半ばに近づいて、天ぷらとフライの作り方を私の母に訊いて、メモをとっているような「変人」の祖父だった。母もメモをされるので、丁寧に話していた。
説明が終わると祖父は、「そうかあ、今までよく知らなんだよ」とこちらを見て言った。そんな思い出がある。その祖父が亡くなってもう50年が過ぎた。

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# by wassekuma | 2018-08-28 09:52 | 文学  

町と街について、ふと思った

台風13号が去って、また蒸し暑い日々が続きそうだ。
台風が近づく前の四日間ほど青森・岩手の旅をしてきた。会社仕事を終えてから、いろいろな風景を求めて地方を歩くことが増えてきたのだが、特に東北には魅かれて出かけることが多い。
会社勤めの時には、仙台や福島などの東北の玄関口での仕事は多かったけど、北東北4県を回る機会はあまりなかったのだ。青森、山形、岩手、秋田の4県である。

それぞれに見どころのある地域だが、今回は見たことのなかった「ねぶた」を見るために、五所川原と青森をハイライトにした旅をした。「ねぶた」の語源には諸説があるようだが、「眠(ねぶ)たし」という説が気にいっている。なにかうとうとしている時に見る夢のようだからだ。荒ぶる魂というような感じのする大きな人形が、夜の闇の中に光を発して浮かび上がる。ほとんどが必死の形相で闘っている。眉がつり上がり、歯をむき出して何かと闘っている像が多い。

五所川原は立ちねぶたで高さが20メートルを越えるものもあって高いところから観客を圧するような形で立ち、30人を越える人がそれを押して動いて行く。車輪はトラックのタイヤほどだろうか。垂直の威容で道をゆっくりと歩いて行く。青森はそれと違い、横に広がる形の屋台状の上に大きな人形が乗っているという形だ。移動中に太鼓と笛の音が鳴り響いて、とりまいている人びとが掛け声をかける、掛け声は五所川原と青森では違う。道の周りには観光客がひしめいていて、この時ばかりは渋谷のスクランブルをも超えるだろう。

初めて見る立ちねぶたに圧倒されていたのだが、その時に、ふと頭をよぎったのは先年この五所川原の町を訪れた時に見た風景だった。駅前の人影もなく閑散とした風景の中に廃業したような古びたビルが立っていた。金属部分の茶色の錆や看板についた黒い汚れが目立った。動いている人間が視界に入ってこない。
だが、祭の日には駅前に多くの人たちが集まっている。法被を着た若者たちも多い。ねぶたの山車の中に「五所川原農林高校」というプラカードのグループもいて、おもわず小さな声で「頑張れ」と声をかけた。この町には、これだけの人がいるんだ、と思った。
話を聴くとこのねぶたの本体は9ヶ月ほどかかって作るそうだ。根気のいる作業だ。

表記の「町」が五所川原だとしたら、それから行った青森は「街」の雰囲気が漂っていた。田の横に距離を表わす丁の字をつけた「町」ではなく、土を重ねたものを通りが囲んでいる「街」は青森のものだった。東京で見かける店も多く、ビジネスホテルもあり、駅前はビルが林立している。土を重ねるとビルになる。
ねぶたの本番で気づいたのは、大きなねぶた屋台の前に大きく目立つ看板だった。大手企業の名前が記されている。電機メーカーの大手が目立った。それ以外にも建設関係や流通関係などの大手企業が参加しているのがわかった。手作り感のある五所川原との違いで企業のバックアップが強いのだろう。市長や国会議員も笑顔で手を振って歩いていた。

さて、祭のあとの様子はどうなっているのだろう。一年の中でほんの五日間ほどのエネルギーの発散になる祭が終わって、町は平静を取り戻しているだろう。人口の何倍もの人が集まり、盛り上がっていた祭は終わった。その後に、ありふれた日常が続いて行く。農作業では暑い夏の日射しも降り注いでくる。
日照りの時は、と思って、すぐに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩を思い浮かべた。暑さをしのぎ収穫の秋があり、そして厳しい冬がやってくる。暗い空の下で不便な環境に耐えながら冬と闘わなくてはならない人たちも多いだろう。老人も含めて。
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これがネットで見つけた五所川原のねぶたの様子。こんな祭でした。短い映像だけど。
今、これを書きながら、あの町の一瞬の賑やかさを思い出している。そして、最後に昨夜拡げて読み始めた本の巻頭の言を記しておきたい。もう40年ほども前に読んだ本の再読だ。
柳田国男の「遠野物語」。今回、花巻から遠野に急に行きたくなったのだが、こんな思いつきはすぐに台風接近のニュースで消された。旅とはそんなものだ。
その巻頭言とは「この書を外国にある人々に呈す」という一行だ。
長い時間を経て今理解した気がする。外国とは「ここではないどこか」の意味なのだ、と。自分の暮らす土地に足をつけて、その足でしっかりと立っている人々ではない人たちに、この物語を贈る、と柳田は書いている。
そして、もう外の国の人びとが一瞬にして消えたあの町ではいつもの風が吹いているのだと思う。

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# by wassekuma | 2018-08-10 09:49 | 日常  

おかしな国になっていくということ

西日本を中心とした豪雨災害が起きてから2週間が過ぎている。
広島や愛媛、岡山での被害が大きいようだがテレビのニュース映像で見ると、山沿いの民家が山崩れ被害にあったり、小さな川の氾濫によって人的被害が出たりしていて、自然との共生が難しいことを感じる日々だった。

被害にあった人びとの「もう生まれ育った町ではない」という言葉にも重みを感じる。家族が亡くなった人びと、住む家が流されて暑い避難所で生活する人びと、多くの悲惨さを目にした。でも、軽々に、胸が痛むなどと口にすることもできない。
日照りの東京で暮らし、エアコンの温度を気にするくらいの生活をしている人間が、その生活を全て失った人たちに、口にするのも控えるという言葉はあるのだと思う。

ちょうど、災害に対する重大な警報が流れた夜に宴会をしていたという政治家たちがいた。翌日にオウム事件の7人の死刑執行があるという法務大臣も参加していた。
弁明に追われる首相は、対策本部を設立して担当大臣にも指示したと繰り返した。総力で対応したという趣旨をオウム(鳥のほう)のように繰り返した。

大事なものが抜け落ちていた。倫理観である。ルールやシステムでは語られないものが個々の倫理感だ。大災害の予測や、歴史的な人数で死刑執行するという間の夜に、党派が群れてピースサインを出して写真をとるということ。これを私たちは「常識のなさ」と呼ぶ。子どものようだ、と言っては子どもに失礼だと思う。今時の小中学生でも、「それってまずいんじゃないの」という子が多いと思う。

権力が自分たちを守るためにルールやシステムを活用することは昔からあることだ。しかし、自分たちではなく国民を守るためには、と考えるのは、彼らの倫理観には含まれていない。その上で、労働のルールやカジノ、議員定数の問題、水道の民営化などを立法機関として断行しようとする。いったい何を守ろうとしているのか。

経済界と選挙の重要性ということが浮かび上がってくる。議員は大方が選挙区で選ばれるものだが、その地域が被害を受けているのに宴会に参加しているK議員もいた。
KはA首相と膝を交えて話している様子が写真に写っている。これからの9月の総裁選がやんわりと匂う。もうアルファベットでしか書きたくない気持ちだ。カフカの小説の主人公のように。
また、その風景をツィッターに掲載して、こんなに盛り上がっています、と嬉しげにコメントする議員がいる。どうすりゃいいの、この現実。

そして、最近また唇がアルファベットのOのようになる案件があった。以前に、和服愛好連の議員の集まりに触れたし、日本会議の議員連、カジノ議連などの連合もあった。なんで、こんなに群れたがるのだろう。この群れが集まりで使う時間は、国民全体の要望のためではないだろう。一億総活躍という空疎なキャッチフレーズもあった。狙いは見えたけれど。女性活躍のための大臣や災害担当とかいろんな肩書を準備しても実態は見えない。小学校以上の委員(大臣)のデフレ化だと思う。

さて、その唇がOの字になった風景。
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これ、名前が長いですよ。「盆踊りとラジオ体操で東京五輪を盛り上げよう」議連。電通だかどこかの下らない尻馬に乗ったのかもしれないが。この暑さの中でエアコンのきいた室内で練習している。これ、バンザイしているのは国会議員の人たちです。長袖でネクタイをしている男もいる。被災地の実情の中で五輪を盛り上げるって。絶句。後ろの浴衣姿の女性は盆踊りの指導者。やっている連中より、これを許すこと、わけがわからん。

そして、ギャグのようだが、だいぶ前にウチワ問題で大臣を辞任した女性も元気よく両手をあげている。盆踊りにはウチワがつきもので。。もうこちらがお手上げになるような現実だ。
でも、この人たちが西日本の豪雨災害についてインタビューを受けると、胸が痛むとか災害にあった人に寄り添いたいとか、しらっと口にするのだろう。

つくづく「事実は小説より奇なり」だと思う。まあ、ブラックユーモアの小説にはなるが。
おかしな国になっている。海外のメディアがどのように捉えるのだろう。
そして、天変地異、自然現象の変化、この夏の酷暑、その中で私たちは生活を続ける。
おかしな国であっても。

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# by wassekuma | 2018-07-20 12:07 | 社会  

昔の映画の味わいについて

今週の初めから箱根での恒例の集まりがあった。二泊三日の箱根滞在。
学生の頃からの付き合いでもう知り合ってから40年以上が経つ。
それぞれの軌跡を描いてここまできた。
年に3回から4回ほどつかう定宿は来るたびに変化しているのがわかる。

中国や韓国のグループが多いのは去年から目立っていたけど、今回は露天風呂の近くでフランス語を聞いた。スイスからきた若者のグループとあとでわかった。
いやはや日本を観光して歩くという人たちの拡がりには驚く。日本人でも余り知らないような場所でも外国人を見かける。

そんなことを話題にもしながら旧友との話は続くのだが、やはり昔話にもなる。学生時代を知っているのは私も含めて4人で、それぞれの「馬鹿だった思い出」話が出る。記憶を空気の中で回していくような感じだ。おそらく多くの同世代は若気の到りということを時々思い出しては反芻するのだろう。

G・フロベールの小説「感情教育」でも最後はそんな描写があって「昔はよかったなあ」という雰囲気でしめられる。「小さな中国のお針子」という中国映画でも、そんな終わり方をする。これって「感情教育」の影響かな、とふと思ったのを覚えている。その頃はよく中国映画を見ていた時期だった。
でもそれは言葉の綾であって、昔でも厭なことや困ることはちゃんと存在していた。

最近のことでは、先月末に新宿に出て「浮草」という日本映画を見た。小津安二郎の映画だ。1959年の作品。私は9歳で、もちろんリアルタイムでは見ていない。
9歳の子どもが「うーん、やっぱり小津は大映で撮ってもいい味だな」とか呟いたら怖いね。

松竹の専属だった小津が大映で撮ったのには理由があるけど、そこは省く。ただ、これが初めてで最後の京マチ子と若尾文子の起用ということだった。二人は大映のトップスターだった。映画は4Kっていうことで、鮮明な画面で見ることができた。

映画が終わってから若尾文子のトークショーがあった。今では80歳半ばの女優が二人の男性に腕を支えられて登壇した。横の入り口から入ってきて、客席の通路を通って階段を上り壇上に向かう。そうだよな、この映画の時に25歳だったというから、もう85歳だろう。暗い映画館では足元が危ない。少し前には犬のソフトバンク一家の祖母としてテレビで見かけた。

彼女は小津を初めとして過去に関わった映画監督の話を穏やかに話していった。溝口健二、増村保造、川島雄三などを中心に話していくが、もうそれだけで日本映画史の趣がある。
共演者たちもほとんどが鬼籍に入っている。「浮草」にしてもそうだ。京マチ子は存命のようだが、共演者はほとんどがもういない。

再びこの映画を見て感じたのは、あの時代の映画制作の職人たちの息遣いだった。カメラの宮川一夫や美術、小道具に到るまで職人の匂いがした。
職人~一つのことを飽きもせずに追い求めて技を磨く人ということだ。
宮川一夫が黒澤明をカメラで支え、中古智が美術セットで成瀬巳喜男を支えた。
映画製作はそういったチームプレイだ。

壇上で穏やかに語る老女優もその職人集団だったのだな、と思った。若尾文子の苦労話の中で、溝口との仕事で自殺まで考えたという言葉は重かった。何が、その彼女を支えたのか。「負けん気」である。負けてなるかという気持ちでその作品を乗り切ったという。「赤線地帯」という溝口健二の遺作である。

負けてなるかという気概をもつことは職人の大切な要素だと思うが、もっと大事なことは勝ったとは思わないことだろう。次があるからだ。勝ったという慢心を捨てて謙虚に次に向かいあう。

話を箱根での集まりに戻すが、二十歳代からこれまでの生き方があって、いろいろなことを話しているうちにそれぞれの「次」が話題になっていた。年齢に関係なく、「次」があり、どこで何をしていこうかという話になる。実現が可能かどうかは別に頭の中にそれぞれの思いが巡っている。そんな時間を過ごせた。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/uEbyIqU7_2E" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>
これが「浮草」の予告編。映画の黄金時代と言われた頃の作品だ。観客がどんどん減って行き解散するしかなくなる旅芸人一座の話だ。大仰で前時代的な予告編になっている。ところどころに見える画面の赤に小津の趣味が表われている。

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# by wassekuma | 2018-07-12 11:21 | 映画  

ワールドカップを見ながら

今はテレビなどではワールドカップの映像が溢れている。
4年に一度のお祭り騒ぎを見ているのだが、40歳の頃からこのワールドカップには興味を持ち始めた。なぜだったのだろう。よくわからん。

中学生の時に神戸の中学に通っていて、その学校が伝統的にサッカ―に力を入れていたこともあるのかもしれない。毎年クラス対抗のサッカ―大会があった。クラスでA・Bの2チームを作り大会を行った。
その時期には日本のサッカ―は実業団サッカーを中心に行われていた。今の人に言ってもわからないだろうが、三菱重工、古河電工、ヤンマー、八幡製鉄というようなチームだったのだ。

当時有名だったのが、ヤンマーの釜本、三菱の杉山などが世界で注目を集めていた記憶がある。個人的には新日鉄の宮本が好きだった。中盤のゲーム作りの人だ。たしか、メキシコのオリンピックで銅メダルをとったときのメンバーだった。

まあ、あの当時はオリンピックくらいしか注目されなかったし、試合の観客数も微々たるものだった。それが今では・・・この騒ぎ。
調べてみたら、あの宮本輝紀選手は60歳で亡くなっているのだが、もし生きていて渋谷のスクランブル交差点の様子などを見たら腰を抜かすだろう。
ナショナルチームで一緒だった川渕三郎はまだ元気で活躍している。

宮本選手に好感を持ったのは、黙々と責任をこなすという雰囲気が漂っていたからだと思う。子どもの自分にとって、大人はこうでなければと思えたのだった。
今メディアに現れる大人たち(自分に近い世代だよ)のような醜悪さはない。
今のようなトータルサッカ―ではなく、中盤を守って左右にボールを運んで攻撃陣に渡すような仕事だ。フォワードはウィングやインナーというポジション名だった。例えば、三菱の杉山はレフトウィングという風に。

あの頃から見れば日本でもサッカ―熱は高くなり、選手への注目度も「半端ない」状態になった。スポンサーの群がり方や放映権などの金の動き方はオリンピックと同じようにお祭り経済効果があるのだろうが、スクランブルで見知らぬ人たちとハイタッチをしたり道頓堀で川に飛び込む人に拍手を送るような趣味はない。「みんなで踊る」のが苦手なだけだが。

今回のワールドカップの特徴は、FIFAランクで下位のチームの見せる頑張りだ。アイスランドやアフリカ勢の活躍が目を惹く。スペインやイタリア、イングランドの名門チームで活躍するスーパースターがいるチームに戦いを挑んでいるのだが、アイスランドのような小国(人口33万人:鳥取県の6割)で、選手たちも別な職業を持っているような国が必死になって相手のゴールを防ぐ。アルゼンチンのとの対戦を見たが、ディフェンスにこれほど感心した試合はないくらいだった。華麗なゴールだけではなく、無名な選手の熱い守りも見ごたえがある。

そして、ワールドカップを見ていてふと感じるのは、この選手たちの一瞬の輝きということだ。これまでに記憶に残っている選手たち。あえてこの若者たちと言うが、若者たちは一瞬の輝きを残して消えて行く。そうか、あんな選手がいたな、という感じ。いろんな名前が浮かんでは消える。イギリスのガスコイン、イタリアのバレ―ジ、ドイツのマテウス、オランダのクライフ等々。そう言えば、今回はイタリアとオランダが出場していない。みんなどうしているのだろう。クライフは亡くなったはずだ。

思えば、サッカ―に熱中した中学生の頃には世界の名選手のことなどはよく知らなった。知っているのは、八重樫であり小城、宮本、杉山、釜本、横山などだ。狭い世界。
そして、今でも覚えているのは二年二組のうちのチームにいた辰巳くんだ。
ライトバックを守っていたが、ほとんど動かなかった。しかし、ボールが来ると肥満体を生かして思い切り遠くまでボールを蹴ることができた。
走れ、辰巳!とセンターラインにいる私は何度も声をかけた。彼は、サッカーはボールが来たら蹴ればいいと考えているようだった。こなければ観戦している。腕を前で組むようにして。そんな光景を思い出す。

サッカ―中継を見ていると、あの頃の風景が甦ることがある。空に向かって飛んでいくボールの風景だ。そして、みんながむきになってボールを追いかけた記憶。

最後に、北アイルランド代表の昔の名選手の写真を。
ジョージ・べストという選手だ。アイルランドという国にこだわりもある。なぜか、5人目のビートルズと言われていた。それほど当時の人気はすごかったのだろう。
この人は伝記まで読んだが、よき時代を感じさせる選手だ。ファンには悪いけど、ベッカムよりもすごいと思う。晩年はガスコインと同様に不遇だったけど。
彼らの時代のサッカ―選手は今のプラティニやベッケンバウワ―のように、あるいはマラドーナのように次の世界で活躍することがなかったのだ。
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# by wassekuma | 2018-06-23 10:37 | 日常  

王様のいない王国

やれやれ、という感じの世の中を見せつけられている。
まあ、東京エリアでの話なのだが。こんな時は、地方のエリアを旅して、「ここも日本だよなあ」という感じで風景を見ることにしている。自然と戦い、あるいは融和している人たちの生活。

やれやれ感から離れて足元の問題に気を配って日々の営みを行っている人たちがいる。
高言を嫌い、嘘を恥と感じるモラルはまだまだ広い範囲で生きているのだと思う。
その辺りの人口?例えば、うちの先祖の墓のある島根県全体の人口は、今私の住んでいる世田谷区より二十万人ほど少ない人口だ。ありゃりゃ。70万対90万。過疎の県になっている。
人口の面から見ると、地方のいくつかの県を併せて、東京の二つの区くらいになる計算だ。島根と鳥取を併せて128万。その程度の規模だ。昔の経済産業力の自立性を考えたら、藩のレベルの方が活性化するのではないか。地方活性をうたう役所を廃止して、廃県置藩。

視線を換えて永田町や霞が関の人たちの生業を見ると、そして、また拡げて東京人の実態を見ると、実は石を投げるとほとんど地方出身者に当たるだろう。私もそうだ。その地元の因縁で票を得た人間が政治に関わる。上京して青雲の志をもったはずのエリート集団が官庁で仕事をする。第4の権力のメディアもそうだ。メディアという言葉がジャーナリズムという言葉を押しやったのにはわけがあって、広告(興行)媒体の浸透が強いからだと思う。特にテレビメディア。

今でも騒がれている日大のアメフトの事件。何度、あのタックルの映像が流れたのだろう。批評する人たちは意気揚々と攻撃することを続ける。就職問題にまで話が及ぶ。あの体育会の事件が就職に不利になるなんて論理があって、大学の就職担当が多くの企業にお願いの文書を発送したという。この過保護状態も「忖度」と呼ぶのだろうか。

この日大の事件は、政治権力のありようがトリクルダウンしたものだ。あのシャンペンタワーのように上から下に落ちる図式。昔、中国の鄧小平が「先冨論」で中国の経済発展を促した手法だ。
責任の取り方が霧の中になって「傘判」の状態だ。円形を描くように丸く決裁判を押すこと。私が仕事勤めをしていた時に、実際にこのようにした企業もあった。責任不在の状態を作る。こんな姑息な手段があるのか、と驚いた。

今、六月末までに仕上げようとしている小説があるのだが、ニュースを見聞していると、まるでSF小説のようだ。国会での動き、次々と生じている不祥事、記憶の混濁、応える立場にないという立場、ないものがあったということ、役人の文書の改竄、名刺があっても会ったこと忘れる人たち、セクハラ罪はないと語る政治家、やはり子どもはママがいい、という軽々しい言葉、いやはや。

これを羅列した小説を書くと「物語を作り過ぎだぜ」という批判が出るだろう。でも、事実は小説より奇なり、という言葉もある。現実なのだ。
最近読んだチェコのカレル・チャペックの「クラカチット」という小説がある。「ロボット」や「山椒魚戦争」で有名な作家だが、この小説は原爆の恐怖を描いていて、G・オーウェルの「1984」の雰囲気も持っている。いわゆる悪夢のような小説だ。

今の日本の状況は不条理に満ちている。たしかに、うちわを配って大臣を辞任した人もいるし、現地のスタッフにオンブされて笑われた大臣もいる。不倫の議員も議員辞職した。下着泥棒の問題を抱えた大臣もいた。あと、パソコンを壊したという人、誰だったっけ。失言に関してはもう記憶から消えるほど数は多い。

この権力構造の緩み方はSFのようだ。そして、なによりも不条理と思われるのが、これらの不祥事よりも、財務官僚が文書はないと証言をしてそれが出てきたという事実だ。印刷をする紙がもったいないほどの量だった。
膨大な紙の山がテレビに映った時に、うちわやオンブや下着泥棒よりも財務大臣の責任は重いと思った。しかし、この人はボルサリ―ノをかぶって海外に顔を出している。海外メディアは彼が発した言葉をしっかり捉えている。

ふと、言葉が浮かんだ。今この国は王様のいない王国のようになっている、と。
王様は裸だと言えるのが子どもだけとしたら、もう子どものようなシンプルな眼に期待するしかないのだろうか。

連想したのは、昔少年時代にやっていた将棋だった。よく将棋を指していた友だちがいて、うちに来て将棋をしている時のことだ。私が優勢でもう詰みの一歩手前まで行った時に、彼は王将を股の間に隠して盤面から消した。
「王将をとられんかったら負けやないやろ」。笑いながら彼はそう言った。私も笑って、じゃあ、おれも王を隠してみるか、と返した。それから王将のない将棋を続けたが、途中でやめた。相手の駒を全部とるという将棋に飽きたのだった。将棋はとられて取り返すというゲームなのに気付いた。そして、ヨーロッパのチェスとの違いはとった駒(敵)が味方になって戦いを続けられるということだ。
ある種の野合とも言える。

こんな状態はまだまだ続くのだろう。
そして、今年ももう少しで半年を過ぎようとしている。時間の流れには忖度はない。

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# by wassekuma | 2018-06-02 11:59 | 社会  

くせのある字を書いてきた

先日、年に一度くらいしか会わない旧友に再会した。
十九歳の頃に大学で知り合った友人だ。今はインドのゴアに住んでいてビジネスをしている。福島の喜多方から出てきた人で庄司くんという。もう一人の長い付き合いの石川くんのやっている店で合流した。毎年一回の行事だ。

石川・庄司とは三人で同人誌を組んだことがあって、もうそれから四十五年を経過している。まあ、これまで無事に生き延びてきたことは嬉しい。
思えば、あの頃は自分たちがどのように還暦過ぎを迎えるなんて想像もしなかった。ただ、今の時点ではそれぞれが何かに強いこだわりをもって好奇心を蓄えながら生きていけることはよかったと思う。

旅の話も出る。庄司のように放浪型の生き方をしていて異邦(イタリア)の連れあいと暮らしているというスタイルもあるし、異国に対しての興味は、やはり何か面白い発見があるという話の流れになる。

話が盛り上がっている時に、ふと頭をよぎった記憶があった。
同人誌を出していた頃のことだ。まず大学の文芸部の部屋で感じたのは、文学との関わりを読むだけで閉じてしまう人たちがほとんどだったということだ。読む→書く、というインプット→アウトプットの流れを語る先輩はほとんどいない。
これではだめだ、と思って、自分たちで出版しようと考えた。

そこで今日のタイトルに繋がる。千駄ヶ谷にある和文タイプの印刷屋とやりとりをした思い出だ。当時のことなので、ワープロやパソコンのワードを駆使することはない。コクヨかライフの400字詰めの原稿用紙を文字で埋めていって、それを印刷屋に渡して製本までしてもらう。

今はほんとに便利なことに削除や追加、書き換えがカーソルを動かすことによって簡単にできる。次の展開のキーワードを書いておいて原稿を続けることも出来る。便利なものだ。
思い出は、原稿を見ていた印刷屋の主人に言われたことから始まる。
「あんた、ほんとにくせ字だねえ。読みにくくて困るんだよ」ということを言われた。校正で赤をいれて欄外に書かれている字もわからねえとこがあるし、と言葉を続けた。「枚数だけは三人のうちで一番多いけど、あとの二人はまだ読みやすいって作業のやつが言ってるよ」

話していて、どうやらこの主人は学生の同人誌に不満を持っているようだった。タイプにない文字、「あ」に濁点を打ってくれというやつもいる、という話も聞いたことがある。表現だからいいだろうってさ、物事にはルールがあるんだよ、あんたら若いのはそこがわかっていない。そう言った。「あ」を濁らせてどう読めばいいってんだろうな。

その時に父親のことを思い出した。高校二年生の時だ。祖父が亡くなってすぐの頃だった。薬師寺の僧侶の講演会で聞いた話でよかったところは、と話し出して掌にノートを出してきた。それを見ながら、しばらく説教がましいことを言っていたが、聞き流していたら突然黙った。そして、首を少しかしげてから呟いた。「なんて書いたのかなあ」と。
自分の書いた文字がわからなかったのだ。父のくせ字は有名だった。
「おまえ、読めるか」とノートを見せたが、ほとんど見もしないで「読めない」と言った。それで、話は中断した。その頃にはDNAという言葉はなかった。そういうことだ。
その後に、自分が愛しく思える人間は、その筆跡まで愛しいと感じるものだということを知った。その文字に、どんなくせがあっても、だ。ま、それは別の話だけど。

あのタイプ屋はどうなったのだろう。出版という領域も激変している。先のインドの友人も電子出版でものを書いている。ケータイ小説?の話もわからない。電子出版から普通の本の出版をして売れに売れて世界で1憶冊という記録を作ったイギリスの女性作家の話も聞いた。知らなかった。E・L・ジェイムズという女性。横にいたイタリアの彼女から中身を聞いたが、まあ自分にとっては興味のない物語だった。

そして今、ニュースの画面で膨大な紙の資料が映し出される。なかったとされていた隠匿資料。ここに書かれているのは全てワードだと思う。無機質で個性を消し去った文字の羅列。

あの時に、「あんたは直そうとして書いてるんだろうけど、それが読めねえんだよな」と苦笑していた店の主人を思い出す。その節はご迷惑をおかけしました、と詫びたいところだが、もう相手はこの世からは消えているはずだ。

字は体を表わすとよく言われるが、おそらくその理屈なら、くせの多い生き方だったんだろうなと思う。でも、それが自分の字体(流儀)なのだ。そう思う。

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# by wassekuma | 2018-05-26 09:48 | 日常