アーネスト・サトウのことなど

去年の末から幕末~明治への歴史に関する本を読みこんでいる。
硬い言葉で言うと、日本の近代化をまた調べてみるかということだが、平たく言うと、NHKの大河ドラマで描かれた西郷の姿に疑問符が浮かんだからだ。
今年の大河ドラマにはなんの興味も湧かないが。

テレビでの西郷は饒舌でもあり自分の意志に忠実な男として描かれる。
しかし、勝海舟の書いたものによると、勝は幕末の頃の西郷と横井小楠の二人を高く評価しながら、西郷を寡黙な男として見ている。横井は饒舌な男だったらしい。
饒舌派の自分としては寡黙で静かな人間にあこがれるが、そうなりたいわけでもない。
もうここまで生きてきてモデルチェンジは面倒くさい。

前にも興味を持っていた明治の頃の歴史を、今度は外国の眼ではどうだったか、という視点で調べてみるかと思いついた。
今の日本の状況を見ていて、そう思ったのだ。政治家が嘘を言い、国家の統計に不正があり、他の国も含めて多くの問題を抱えている日本を外国の人びとはどう見ているのか。アメリカ、中国の二つの国に加えて、最近では韓国、ロシア、そして日産絡みのフランスと外交筋で問題を抱えている。沖縄の問題も混沌としている。しかし、どこまで政府は機能しているのか。

さて本題のアーネスト・サトウについて。
彼は明治のイギリス公使の秘書のような位置にいた人で、特にパークスという公使との関係が深い。この人の日記を読むと、明治維新と言われるものが、いかに外国との関係が深かったかがよくわかる。空白期間もあるが、実に綿密に当時の日本の混乱が描かれている。イギリスとフランスの綱引きも描く。ロシアがどのように明治政府に関与したかもわかる。この時期に、もう北方領土問題は生まれている。ニコライ二世の大津事件も歴史に残っている。

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この写真がサトウのものだが、なかなか鋭い面構えだ。明治の初めの混乱を記述しているが、あの頃から人間の責任よりシステムの責任へと傾斜する国だったことがわかる。でも、そのシステムを作ったのは人間だ。彼は日本の文化を学び、書道まで手がけた。
この人以外に、外国人が当時の日本について書いている本は多くある。
イザべラ・バードという女性もいた。ニコライという神父も文庫本で三冊になる量の記述を残している。パークスの前任公使のオールコックも日本を分析した本を残した。これが外交の力なのだと思う。

攘夷という旗印を掲げて明治維新に繋がり、西南戦争が終わるころには鹿鳴館で洋装の日本人がダンスをする。これは外国との条約改正のためでもあり、西洋への極端な傾斜でもあった。そして、文明開化と富国強兵という二つの言葉がセットされる。

さて、今の日本の様子は、と見ると、政治家の識見のなさが話題になったり、それが海外でも批判される。ネット上でも乱暴な言葉が話題になる。

話は逸れるが、最近のニュースで呆れたのは、コンビニで100円を支払って150円のカフェラテを飲んで老人が逮捕されたというニュースだ。これもネット上のニュースだけど(確かあのNHKの報道だった)。アメリカからの要請もあって、戦闘機のいくつかを何十億か出して購入するという額に比較して、50円だよ。なんか変だ。
そして、還暦を過ぎた男がマシンのボタンを押し間違えたと主張したのも、面白かった。自分もボタンを押し間違える可能性があるからだ。やりそう。まあ、結果は犯行?を自白して逮捕。なんか笑える。

閑話休題。長い幕府体制から大きな転換をした小さな国を、海外からはしっかりと見据えていた感じがする。今は日本の誰がキーパーソンとして現場に入り、先に述べた海外の国を見据えているのだろうか。確か沖縄及び北方対策担当大臣という人もいたはずだ。で、誰だったっけ?

サトウは書いている。「日本人は慎重という言葉をもって自分の立場を守ろうとする」と。彼がこの言葉を書いたのは、今から100年ほど前のことだった。
今は慎重が「忖度」に変わっている。そんな気がする。

# by wassekuma | 2019-01-27 07:18 | 社会  

年明け早々のモノクロ映画

もうそろそろ正月気分も消えかけている。
元日は恒例の家族の年始挨拶、二日はこれも恒例になっている下北沢の近くの神社に夫婦で初詣をして下北沢の町を散策。そして、三日は書き初めをする。
書き初めといっても、毛筆で何かを書くわけではなくパソコンに向かって小説を書き始めることだ。毎年、三日にはこの行事をする。今年書こうとしているものについてのノートをとっていく。まあ、その後はだらだらと寝ている。

昨日は渋谷に出かけて映画を見た。シネマヴェーラという映画館で昔のハリウッド映画を特集していて、未見の作品を見るためだ。
蓮實重彦が監修していて1950年前後の作品がシリーズになっている。趣味的には当時のフィルムノワ―ルの傾向が強く、犯罪ものが目立つ。
「ショックプルーフ」@ダグラス・サークと「罠」@ロバート・ワイズの二本の映画を見た。両方とも1949年の映画。

私の生まれた前後のものが多いので、ほとんど全部がモノクロ映画。
光と影をうまく描きながら、当時の猥雑な街の風景や音、そして人々の表情をスクリーンに浮かび上がらせる。

今年の最初に見たのはDVDで見た「質屋」だった。知ってる人なら、正月早々に「質屋」かよ、なんで、と言われそうな映画だ。二十歳の頃に渋谷の全線座で見て強く印象に残った。この映画はシドニー・ルメットの映画だが、「十二人の怒れる男」の7年くらい後に撮っている。1964年製作。

もちろんモノクロ映画で音楽をクインシー・ジョーンズがやっている。平和に暮らしていたユダヤ人の一家がナチスの迫害のために主人公を残して誰もいなくなる。それから25年が経ち、主人公のソルは過去の大学教授の職を捨てて、ニューヨークで質屋を経営している。

主役の質屋の老人ソルを演じるロッド・スタイガーの演技がすばらしい。貧しい人々が品物を質入れして金を借りようとする。黒人の場合が多いのだが、ソルの社会とのつながりはそれくらいのものだ。自分が誰からも愛されていないことも知っている。ただ、弟子になってソルのことを尊敬して商売の講義を受けようとする若者がいる。設定はそんなものだ。これ以上、物語を書くのは控える。

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ソルは愛する家族を全て失ってからは、冷淡に世界と接するようになる。信じるものは「金」だと言い切る。彼の冷淡さに怒る人々も多い。
そして、なぜか25年もたっているのに当時のナチスによる迫害の過去がフラッシュバックとしてソルの頭に甦っている。彼は、人を愛すること、その人のための温情といったものも捨て去っている。

金を借りる方は笑顔も浮かべ愛想をふりまいて交渉するが、彼は冷たくあしらう。
「5ドル貸してほしいんだけど」「いや、2ドルだ」という会話や、結婚指輪を持ってきた女に、「これはガラス玉だ」と言い切る。女は泣いて店を出る。

この映画が私の生まれる前のアメリカのありようを描いていることが印象深い。移民がいて黒人が貧しく暮らすハーレムがあり、ソルと同じように話相手もいない孤独な老人もいる。ハリウッドは光の部分を楽しく描きもするが、このような影にも目を向けて映画を作っていたのだ。
これで、この映画を見るのは確か5度目だと思うが、ラストシーンには毎回胸を突かれるものがある。

何人もの客に対して、銀縁眼鏡をかけて下から見上げるように相手をじっと見るソル。人間を値踏みしている眼差しだ。モノだけではない、人間まで値踏みする老人になっている。この哀しさ。

今年は映画に関しては、いい年明けになった。昨日見た二本の映画もよかったし。
若い頃のエネルギーはないけど、今年もいい映画に出会いたいと思う。

# by wassekuma | 2019-01-05 09:42 | 自己紹介  

2018年が暮れていく

大晦日を迎えた。
今年も終わり明日から新年を迎えるわけだが、私の好きな作家のG・フロベールは、「新年のどこが目出たいんだろう」と言ったらしい。聞いたわけじゃないけど。
確かに、時間の流れでたまたまの区切りだともいえるが、やはり年の変わり目に人びとは何かの意味を見ようとする。

日記風になるけれど、年賀状も投函したし大掃除では窓拭きと床磨きを担当した。相方は動き回っている。よく働くもんだ。
そして、恒例の作業をする。ずっとつけている日記の最後に、今年のニュースを書きつけることだ。
いろいろな朝がありいろいろな夜を迎えて時間が過ぎていく。その時間の中で、個人的なことと社会現象についての十大ニュースを書きとめる。
旅のこと、読んだ本のこと、DVDも含めて見た映画、聴いた音楽のことなど自分の趣味領域のことも記録する。国内13回・海外2回の旅、136冊の読書、52本の映画、そして今年のハイライトとなった庄司紗矢香のコンサートを思い出している。一度でいいから彼女のバイオリン演奏を生で聴きたかった。それが実現した。

この作業を始めたのは、私が30歳の時に父を失ってからだ。1980年のことで、それから日記をつけることを始めた。それまでも時々書いてはいたが、しっかりと書くようになったのは父の死が影響している。父は還暦を迎えてすぐに亡くなったが、その際に、私は、父の人生の何を知っているのだろう、と思ったのだった。

それから長い時間が過ぎて、永井荷風の「断腸亭日乗」を知ることになる。この作家はこの日記文学を生み出すために40歳を前に隠居したかのように見えた。通読してもそれほど大したことは書いていない。病院に通ったり、銀座や浅草の町歩きをする。武士がするものではないと言われた散歩だ。なぜなら散歩は目的がないからだ。目的もなく町を歩くことは武士の倫理に反していた。

しかし、本来は出自が武士の家だった荷風だが、それに反して陋巷を歩き回ったそして、そこに暮らす人びとに目を向けた。
「犬も歩けば棒にあたる」という言葉あるが、彼の「濹東綺譚」もまさにその言葉がぴったりの作品だ。
今年も荷風の作品を読みなおしたが、つくづくいい時代を生きた作家だと思った。もうとっくに失われた世界を作家が生きいきと描ける時代。震災や戦争で滅びてしまった町の風景を見た作家。そこで生みだされた作品を読む読者がいたということ。多くの言葉を連ねることの意味がわかっていて、それが作品になった時代。

今年の社会十大ニュースで、どうしても気になって取り上げたニュースがあった。もう忘れられているかもしれないけど、三月の事件だ。目黒区に住む5歳の少女が親の虐待によって死亡した。
子どもの虐待の報道は時折目にしていたが、私が衝撃を受けたのは、その女児が覚えたての言葉で両親に書きつづった文章だった。もう悪いことはしないと詫び、これからいい子になるという主旨の言葉だけを書き連ねて亡くなった。
ようやく言葉を書けるようになって、その子は詫びの言葉しか書けなかったのだ。

詫びればいいことを他の責任に転嫁したり、なんとか言いくるめようとしたり、忖度という言葉でヒラメ族が互いに納得するような性質のものではない。そういう連中こそが「寄り添う」というような気味の悪い言葉を平気で使う。

この少女には寄り添ってくれる大人がいなかったのだろうか。

言葉はたかが言葉であり、されど言葉という意味を持つことがある。浮遊するように空気の向こうに消える言葉もある。この少女は、それでも必死になって言葉を連ねたのだと思う。

トランプがどうだ、とか日米関係はどうなる、とかグローバリズムがどうだ、とか声高に言われる時代に、小さな子どもの死が気になった。
この子には「今日は楽しい日でした」という日記を書く時間はなかったのだ。

同年代の仲間と話していて、来年は古稀だなという話題になった。数え年の七十歳。
古来稀なり。なんとか幸運にも生き延びてきた。
さて、来年はどんな年になるのだろう。

とりあえず、目の前にあるのは「年越しそば」の時間だ。
食べるものをおいしいと思い、見る風景をきれいだと思い、空をたなびく雲を美しいと思う。そんな時間を過ごして、あの子の書けなかった言葉を日記の端に残す。
「今日は楽しい日でした」。そんな日が少しでもあればいいと思う。

あと6時間で、この一年が終わります。
飛び散らかるような文章を時々読んでいただいていた数少ないみなさん、ありがとう。どうぞ、よいお年を。

# by wassekuma | 2018-12-31 18:10 | 日常  

年の瀬を迎えて

風邪をひいてしまった。
今年初めての風邪ひきで39度ラインまで体温が上がった。まあ、人間も生ものなので、体調の好不調は仕方ないことである。三日ほどして平熱に戻ったが、まだ体がだるい。
ちょっと無理なスケジュールがたたったようだ。

今年最後の応募原稿を終えて、それから予定が目白押しになっていた。いくつかの会合があり、大学の同窓の集まりで谷根千を巡り、その翌日にはかねてから行きたかった宝川温泉に向かっていた。水上エリアは雪が降っていて都会からみるとかなり冷え込んでいた。いやはやちょっと無茶なハードスケジュール。68歳だぜ。いかんわ。

いつも箱根に集まる40年来の友人たちと食事をしながら話題になった。「古稀」のことだ。そうか、数え年でいうと来年は古稀になる。古来稀なり。
人間は運と背中合わせに生きていると思っているのだが、まずは古来稀な年齢まで生きてきたことは幸運だった。

青く拡がって筋雲が横に走る空を見上げながら、あの寒かった山の中の風景を思い出す。暗い空、降りしきる雪。
そろそろ恒例である一年のまとめをノ―トに書いていく。自分のやりたかったこと、旅をすること、未踏の作家についての読書、今年出会った音楽、そして見た映画のことなどを記録しているのだ。

これらは今年最後の記述で書いてみたいが、古稀にこだわると、自分の少年時代の記憶に遡る。子どもの頃に還暦を過ぎた大人は、かなり老人臭く見えたということ、今国会中継で映る老人たちは「人生100歳時代」という言葉をなんの疑問もなく受け入れているようだ。量ではなく質の問題の方が重要なはずなのに。

子どもの頃に母方の故郷に帰ると「百歳ばあさん」と呼ばれる老婆がいた。母の曾祖母にあたる。名前は忘れた。島根県の田儀という海辺の町に住んでいて、家にいくといつも自作の和菓子を出してくれた。木の皿にほこりが目立ったので気になったが、私たちはなにも言わずに食べて、おいしい、と言った。
もう白内障が進んで目が不自由だったのだろう。

その百歳ばあさんがプレゼントしてくれたものが、今、私のデスクのパソコンの下にある。銀色の二宮金次郎で小さなものだ。人生の符合はあるもので、私が会社仕事をやめてからすぐに背中の薪の荷物が外れて落ちた。
そうだよな、金ちゃん荷物降ろさなきゃな。永遠の勤労少年、二宮くん。

今、その金次郎は薪の荷を枕にして寝転がって本を読んでいる。荷物をおろして、読みたい本を読み、やがては昼寝でもするのだろう。
なぜか、この金次郎だけは長い間捨てずに持っていた。
60年近く前にもらったものだ。微かな記憶で、この金次郎の偉いこと、努力をする子どもは偉くなるというような話を聞いたような気がする。

ただ、とりまいていた私たちは(やしゃごというのかな)、そんなことは聞き流して早く海に行きたかった。田儀の浜辺には貝やワカメなどの海草、岩場にひそむ小さな魚などがいて我々をわくわくさせたのだ。後で聞くと父も二十歳代の頃にそこでわかめやサザエを採っていたと言っていた。サザエを採って岩場で焼いて食べたことを嬉しそうに話していた。それはうまかっただろうな。

父は戦争に出征する前の年に、実家のある松江から離れて、この田儀の家で半年近く過ごしていた。その日々は父の遺した日記に書いてある。仲のよかった従兄弟との交流や毎晩のように花札を引きたがる百歳ばあさんのエピソードなどだ。
就職活動もしている。学生であるより社会人の方が徴兵制から逃れやすかったのか、ふとそんなことも思う。そんな時代だった。
自分の人生で最後の夏かも知れないという記述もある。輝ける夏。
父の日記の表紙には霞んだ金文字で「皇紀二千六百年」と書かれている。

一人で岩場の上に立って、ぼんやりと海を眺めていたことを覚えている。この先に何があるんだろう、という普通の感覚で見ていたが、自分が古稀の歳まで生きていくことなんて想像もできなかった。
今、自分が旅に出る時には、あの時の感覚が通底しているような気がする。風景が与えてくれる印象は言葉にできないものがある。

# by wassekuma | 2018-12-19 12:37 | 日常  

小さな国と大きな国

ありゃ―、もう11月も終わろうとしている。
先月の中欧旅行から帰ってきて、いろいろなことで多忙な日々が過ぎていった。
原稿をわっせわっせという感じで仕上げて、恒例の温泉旅をしてから、神戸に帰省して中学の同窓会に出席。その直後に老母を連れて出雲に向かった。

墓参のためだ。墓は島根の端っこにある日御碕というところにある。島根県には子どもの時から馴染みがあるのだが(両親が島根の出身)、もう典型的な過疎の地域になっている。今回は大阪からのバス旅になった。やれやれ。

今年も、いろいろな所を歩き回った一年だった。子どもの時から、母から「糸の切れた凧のようだ」と言われたことがよくわかる。興味をもったものに集中して、我を忘れるという性格は変えようがない。周りに迷惑もかけたこともある。
でも、いいや、みんな迷惑かけあって生きてるんだから、とも思う。
幼稚園の時に二度ほど行方不明になって、住んでいた社宅の人たちが必死で探してくれたことがあった。どちらも、武庫川という川の近くで発見されたということだ。
まあ、これはまた別の話。

前回の話の続き。チェコやオーストリアという小さな国を旅したのだが、これはヨーロッパの歴史に対する興味だった。300~400年の間に、帝国として君臨していた国々の今を見たかった。ハプスブルグの統治。血族婚や政略結婚で支配の領域を拡げた。おそらく遥か昔の時代に光輝くような勢いだったと想像する。そして、オーストリアハンガリー帝国の今を見てみようか、と思った。

その帝国が分散して、今は人口1000万クラスの小さな国になっている。ウィーンの空港について旅は始まったのだが、最初にガイドの方から風力発電の話を聞いた。拡がる大平原の上に多くの風車が見られた。「国民投票で原発は廃止になったので今は風力発電を開発している」ということだった。ほう、国民投票か。わかりやすい。小さな国だからな。
この感覚は、今年の二月に行ったベトナムのハノイでも感じた。気温が10度を下回ると自動的に学校は休みとなる。学校に暖房設備がないからだ。寒いから休み。貧しい国だから、とガイドの女性は呟く。わかりやすい。

でも、この小さな国々の人びとの生活のありようは、何か懐かしい感じがするのだ。旅をしてその地域がわかったような気になるのは、傲慢というものだろう。ただの旅人が何をほざいている、という筋合いのものだ。
ただ、感じることは自由だ。ベトナムを貧しい国だと言うガイドの女性の眼の輝きは暗くはない。頬笑みさえ浮かべる。

現代の大国の定義は必ずその頭に経済がつく。経済大国。面積ではない。例えば中国の場合は人口の多さが経済を支える大国になっている。だから、世界が注目して経済的メリットを追いかけるのだろう。そして、経済大国のキーワードを追いかける。
それは生産性であり国益であり、経済効果だ。

今朝入ってきたニュースでも大阪の万博での経済効果ということを取り上げている。
でも、それで喜ぶ人たちは一億二千万人の人たちの中でどれくらいいるのだろう。
2020年のオリンピックと同様に建設系や広告系、人材派遣会社系は仕事は増えるんだろうな。あと交通インフラ系か。また高速道路でも作るのかな。カジノに繋がるような。

私が旅をしている方面、山々が切り立ち川が流れその隙間にひっそりと暮らしている人たちは何の関係もないだろう。人出が足りなくて東京や大阪への出稼ぎはあるとしても。海外からの労働者の問題、働き方改革という問題、それらを抱えて経済大国日本はどこに向かうのか。出雲を歩いて地元の人と話をしても過疎化の話題が多かった。
若いものがどんどんいなくなる、という話。「忘れられた日本人」という本のタイトルが頭に浮かぶ。

今回の中欧の旅で感じたのは、これらの小さな国がアピールしているものがよく伝わってきた。音楽であり、絵画であり、文学であり、教会などの古い建物などだ。
モーツアルトやハイドン、シューベルト、クリムトなどのウィーン世紀末美術、それからプラハではカフカ、などだが、それらは楕円構造で見ると、経済効果とは無縁のものだ。生産性や経済効率と芸術は遠く離れている。若くして亡くなったモーツアルトやシューベルトは金を稼ぐことには苦労したが、国益のために曲を作ったわけではない。しかし、これを大切な遺産として国が守っている。

さて、オリンピックや万博はどのような遺産を残すのか。敗戦後19年ほど経ってオリンピックを開催し、その6年後には大阪で万博を開催した。
私はそれらを記憶している年代だが、家の近くで行われた万博の記憶はほとんどない。混んでいたこと、コカコーラを20歳にして初めて飲んだことくらいだ。昔から混んでいる所は嫌いなので人の長い列には並ばなかったということもある。

今の日本の実情でどれくらいの人びとが眼を輝かすのかはわからない。特に若い人たちの心情が。ただ、渋谷のハローウィンほどの熱気はないだろう、と思うだけだ。
おそらく、この予定されている世界的な二つのお祭りはそれほどは盛り上がらないだろう。高齢者の健康、祭を支えるスタッフの問題、おそらく予算も含めた問題も横たわっている。あの頃とは違う。厳しい戦争を経験し、ようやくこれで日本も名誉回復だと意気込んだ人たち(私の親の世代)がいるわけでもない。

ふと思ったのだが、これらの小さな国々や忘れられた日本の村落には特徴がある。それは空を大事にしているということだ。どこに行っても頭の上に拡がる大きな空を見ることができた。高村智恵子の言った「東京には空がない」という言葉を思い出す。
日常がお祭りのような渋谷の街のスクランブル交差点で、ぼーっと空を見上げている観光客はいない。見上げると林立する高層ビルと工事中のクレーンが聳えているのが見えるだけだ。

# by wassekuma | 2018-11-24 11:26 | 社会  

小さな国の光と影

今月の上旬から半ばまで中欧の旅に出かけた。
ウィーンの空港からハンガリーのブタペストに移動し、それからチェコのプラハ、オーストリアのザルツブルク、そしてウィーンに戻って来るという旅だった。小さな国の国境を越えて回ったことになる。

人口がオーストリア877万、ハンガリーが1006万、チェコが1058万という規模だ。ウィーンという都市で187万。東京23区の人口921万、一都三県(東京・神奈川・千葉・埼玉)で3164万という人口と比較すると、国の規模がわかる。
しかし、日本はほんとに一極集中だなあ。そう思う。
中欧においては東京から神奈川への移動が国境を越えるようなものなのだ。
言葉が違い、文化も違う。共通の基盤はキリスト教であり、王政の長い支配があったことだ。ハンガリー・オーストリア帝国。ハプスブルク家の支配は650年に及ぶ。

大きな権力の下で歴史を作ってきた国々だ。現代史として見ても、旧ソ連の支配下にあったハンガリーとチェコ、そして今回は行けなかったポーランドは、1956年のハンガリーから始まって12年周期で抵抗運動があった。1968年の『プラハの春』と呼ばれた抵抗運動、ソ連軍の戦車が何千台も走った通りにも行ってみた。

最初にハンガリーで、現地の女性ガイドから国の人口は1000万程度だが観光客は年間4000万人だ、と聞いて驚いた。4倍か。日本の人口で按分すると4億人の観光客。しかし、一言で観光立国とは言えないだろう。先に述べたように、東京から神奈川への移動と考えれば納得もいく。小さな国の間で行き来しているようなエリアなのだろう。
東京の人間が横浜の中華街に行ったからといって観光客とは呼ばない。

また、いつものように旅先での自由時間をつかって裏通りや細い脇道に入る街歩きをしてみた。そこで生活する人々の風景が見たいからだ。市場の鮮やかな果物の色彩、多くの種類のソーセージがぶら下がる店、飛び交う言葉、なぜか不機嫌そうな店員、工芸品を並べて居眠りしているような老婆。ブタペストやプラハには大きな市場がある。物価はそれほど安くはない。

裏道を歩いたブタペストは、何か暗いような印象を持った。それが何なのかわからない。夜になると、無駄と言えるくらいの大きさを誇る国会議事堂をライトアップしてドナウ川に光が反射する。美しい風景なのだが、この派手な建物は三分の一しか使われていない。議員数の規模から見たら当然だろう。なにかアンバランスなのだ。

そこで、ふと思った。この小さな国々は遠い昔の栄華によって残された遺産相続によって国や文化を守っているのだ、と。ヨーロッパの広いエリアを650年支配した王朝、その権力が財力を行使して王宮や教会を作った。それが、21世紀の今でも観光資源として国に収入をもたらせている。そのヨーロッパの繁栄の光の後ろにはやはり影があって多くの悲劇が残されている。二つの世界大戦の痕跡も多く残っている。ナチスの足跡も。

それにしても気候に関しては、やはり異常気象を感じた。緯度の関係などで相当な寒さを想定していったのだけど、なんと初夏なみの暑さ。9月のほうが寒かったそうだ。準備した冬物の衣類はかばんに入ったままだった。雨も極端に少ないので、ドナウ川の水位も落ちていた。世界中の傾向かもしれない。自然の異常な変化が人間社会を翻弄する。

帰ってから写真の整理をしたりして、旅の思い出を反芻しているのだが、街の中で交流した人々のことも頭をよぎる。ウィーンでは親切な若者に助けられた。

今回の事件だが、夜のウィーンを一人で歩いていて迷路のようなところに入り、もとの大通りに戻れなくなった。帰国する前日のことだ。大きな建物、オペラ座やホテルを照らし出すライトアップの光の渦に巻き込まれたような感じだった。方向音痴の弱みが露骨に出た。どこに行っても光の洪水に出会う。
その時にカフェで働いている青年にホテルに戻る道を訊ねたら、中東系の若者で、よくわからない、と言う。その後に、彼が呼んで先輩らしき二人の人が一緒に教えてくれた。三人とも中東からやってきている仲間のようだった。丁寧に道を押してくれた。そして、最後に三人で頑張れというような調子で送りだしてくれた。これも一期一会だ。

プラハでカフカの生家にも寄ったが、まるでカフカの作品のように目的地が見つからない彷徨を一時間ほど続けたことになる。これも思い出だ。

ようやく時差ぼけからも解放されて日常が戻ってきた。今月末までの応募原稿も終わったし、さて、これから日本の秋を愉しんでみようか、と思う。
次のブログでもこの旅で考えたことを書いてみるつもり。あ、もう11月になるのか。はやいなあ、もう今年もあと二か月か。

# by wassekuma | 2018-10-28 08:05 | 日常  

われらの時代

今日のタイトルを見て、ヘミングウェイを連想する人と大江健三郎を連想する人がいると思う。いや、二人とも浮かぶ人がいるかもしれない。
この「時代」という言葉は、作家における時代へのイメージを表わすし、文学が社会との関わりで得るものを浮かび上がらせる。
そして、「われらの」という言葉には作家の思いが含まれている。

なんで、こんなことを考えたのかというと、先日箱根の温泉に同世代の友人たちと集まった時に、みんなで喫茶店で話していてふと思ったのだった。
「昔の匂い」という話になった時だ。今は加齢臭という言葉や何かの匂い、例えば車内、例えばスポーツを終えた子ども、部屋の匂い、煙草の匂い、などを消臭する薬品のコマーシャルが多いという話題になり、こんな時代になっているということになった。メンバーは1950年生まれの男性が5人、還暦を過ぎたばかりの男性が1人という構成だった。

匂いと書くこと自体、嫌われるものについては、正確には臭い(におい)と書くべきかも知れない。実際に今起きている言葉のいじめでは「臭(くさ)い」という言葉が効力を持つようだ。何かの札のように。

老人(?)6人の話は、おれたちの時代には、と繋がっていく。季節ごとに匂いがあったような記憶。冬の落ち葉焚きの匂いや、それぞれの家の中に漂う匂い。もちろん、今の水洗トイレにはなかった臭い、秋の花はよく匂うし、学校に行く通りの氷まで匂うような気がした。冬が今より凛冽だったのかもしれない。耳が痛く、息をする鼻が痛かった。そんな冬だった。

こんな話をしているメンバーは年齢の半分以上を昭和という時代に生きていた。昔から活躍していた有名人が亡くなると「昭和が終わった」という表現をメディアは続けて使う。何回終わったら気がすむんだ、とも思うが、とりあえず終わらせている。

時代というと永井荷風の言葉を思い出す。あの関東大震災の際に、「われは明治の児ならずや」と吟じた言葉だ。この関東大震災は荷風に私淑する谷崎潤一郎の人生の転換期ともなっている。二人とも滅びた東京の風景を見ている。
そして、荷風は江戸の風情のなくなった光景を愁嘆し、潤一郎は関西へと拠点を移す。そして、関西文化の漂う作品を生み出していく。

今の日本の状況を見ていると、「われは昭和の児ならずや」と呟きたくなる。
前にも、買った道具の不具合をサービスセンターというところに電話したら極めて人工的な対応をされた。機械による音声(女性の声)だけの対応で、これがひょっとしたらAIってやつか、と思った。声の温度、間のニュアンスなどの対話のポイントが抑えられない。
何よりも機械的な声が生理的に気味が悪い。そして最も困ったのは、質問の後に、必ず「はい、いいえでお答えください」と声が伝わってくる。「はい」とか応えている自分がいる。なんとも間抜けな会話だ。

このような社会環境を私は「われらの時代」とは呼ばない。SFめいた小説を構想するにはいいかもしれない。近未来の悪夢のような交響曲の序奏を聴いている気がする。
そして、考える。「われらの晩年」をどのように見ていくのか。
先に述べた二人の作家をロールモデルとして考えると、熱海で優雅に暮らしながら最晩年にも瘋癲老人として書き続けた谷崎潤一郎か、あるいは息を切らしてまで歩きながら、さびれた裏町に入ったり、好きな浅草や銀座の町を徘徊した永井荷風か。
自分はどうやら後者のグループに属するようだ、と思う。敬意をもって読んでいる宮本常一の存在も大きい。この人のことは以前にも書いた。多くの島を含めて日本国中を歩き回って記録し続けた民俗学者だ。

「われらの晩年」の基本は、やりたいことをやりたいようにやる、という黄金律だと思っている。それも、できるうちに、という言葉が付け加えられる。

ということで、明日から10日ほど中欧方面の旅をする。
一期一会の風景とそこで暮らす人々との一瞬に触れるために。そして、なによりもそこに飛び交う自然な人間の声を聴いていくことが楽しみだ。

# by wassekuma | 2018-10-07 16:56 | 社会  

ジョージアの映画を見たという話

はやいものでもう10月を迎える。
このブログ?のタイトルは自分の誕生月にもからむのだけど、いやあ来月には68歳か。
昔のイメージだと完全隠居だ。歌にもあった。村の船頭さんの歌で、今年60のおじいさんという歌詞だった。年をとっても櫓を漕ぐときは・・と続いていた記憶がある。
子どもの頃にこの歌を知り、回りを見渡すと、確かに「隠居」然とした老人の風景があった。おとなしく町の中にいて時々散歩をするくらいのイメージだった。盆栽の手入れなんかしたりして。

今では、「隠居」という言葉は死語だろう。なんかいい響きのようにも思うけど。時代は変遷してシルバー世代とか熟年という名称まで生まれている。
こんなことをぼんやりと考えたのは、今月動き回っている時のことで、神保町の映画館でジョージアの監督の作った映画を観た時だ。

9月は個人的にいろいろと忙しいことで日々が埋まっていたのだが、その中でも好きな旅をすることと映画を見ること、そして月末が締め切りの応募原稿を仕上げることだけは合間をぬってやっていた。まあ、これが私の隠居生活だ。

神保町の岩波ホールに行って、またかという印象を持ったのはロビーを埋めている人たちがほとんどが自分と同世代で、昔は私と同じように名画座を回っていたような感じの人々だった。1970年代頃の話。
もし話しかけたら、新宿、渋谷、池袋にあった名画座の思い出話ができそうである。フランスのヌーヴェルヴァーグと称された監督たちのこと、イタリアのフェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニの映画。ヒッチコックがいてウェルズがいて北欧ではベルイマン、ポーランドではワイダを中心とした監督たち、というように多くの映画が群れをなして思い出される。てことで、まあ黴臭いような話だ。

映画館の中で光と影の銀幕をみつめていた。今の若い人たちがゲームソフトに熱中するのと同じような情熱をもった人間がいたということだ。私も、映画館を三軒ほどハシゴしたことがあったくらいだ。なぜかこういう記憶は鮮明。最後はオールナイト5本立て。加藤泰監督の特集だった。

今回はジョージアのテンギズ・アブラゼという監督の<祈り>三部作を観たのだが、見ごたえのある映画だった。グルジアという名称が馴染みがあるのだが、いつの頃からかジョージアと呼ぶようになっている。相撲の「栃ノ心」の出身地だ。
ぼんやりと覚えているのはソ連の時代に政治マタ―で名前が出ていたが、どこにあるのやら、という感じでよく知らない国なのだ。

ソ連の時代と言えば、アンドレイ・タルコフスキーを思い出す。「ノスタルジア」「サクリファイス」という強烈な映画を作った監督だ。
今回、このアブラゼの映画を見て、タルコフスキーの雰囲気を連想した。ジョージアという国の風景や人々の描き方は、タルコフスキーやギリシャのアンゲロプロスの映画作りを連想させる。祈り~希望の樹~懺悔という三本に通底するのは、権力や共同体の縛りによって排除された人々の姿だった。これが予告編。

この監督は1994年に70歳で亡くなっている。三部作は20年近くをかけて撮られた。部族の闘いや因習の持つ圧力、ソ連邦の時代の政治的な弾圧が三部で描かれているが、権力との軋轢の中で希望をもって生きていく人々の物語だ。
映像としてはインパクトの強いシーンが多い。

こんな映画をシルバーシート状態で見ていた。見終えて帰る際には杖をついている女性を何人か見かけたし、歩き方のおぼつかない老人もいた。
それぞれがある種の情熱をもってこの場所に集まっているのだ。見たいものを見る、という単純な動機で。この単純さが、おそらく「隠居」の核となるのだろう。見たいものを見て、やりたいことをやるということ。

そんなことを考えて、ふと永井荷風のことを思い出した。40歳から隠居した作家だ。この人は日記と散歩で有名なのだが、ある書き手が彼の散歩について、こんな印象を述べている。
~荷風さんはぼんやりと歩いているように見えたでしょうが、よく見るとぜいぜいと荒い呼吸をして歩いていたのではないだろうか。かなり無理もして~。

そうだな、と思う。やりたいことをやるのに必要なエネルギーというものはある。
自分のやりたいことをやるのは自分しかいないのだから。
テンギズ・アブラゼもきっとこんな思いでこの三部作を仕上げたのだろう。

# by wassekuma | 2018-09-23 16:17 | 映画  

雷雨のあけた朝に

いやあ、昨夜の雷雨はすごかった。
家の近くを流れる目黒川も水位があがって騒ぎになっている。
今年の異常気象は以前にも触れたけど、今年の夏はやはり変だ。
猛暑はまだまだ続きそうだし。
ということで、おはようございます。

そんな日々を過ごしながら、青森の旅から帰って、久しぶりに映画館を巡っている。恵比寿では、イングマール・ベルイマンの二本の映画を見た。「野いちご」はもう何度も見ているが、この年齢になると主人公の老教授の様子が具体的に迫って来る。
一昨日は、神保町の岩波ホールでジョージア(グルジア)のテンギズ・アブラゼという監督の三部作の二本(「祈り」と「希望の樹」)を見た。最後の一本はまた見に行くつもり。

この映画についての話は次回にまわすが、「そうか、こんな映画監督もいたのか」という発見について思ったこと。知らないことを知ったということ。
そこで、最近知ったアメリカの作家の作品について。
詳しい人は知っていると思うが、リチャード・パワーズという作家はまったく知らなかった。ふいに出会った作家ということだ。いやあ、はじめまして。

同世代のアメリカ作家ではポール・オ―スターは読んでいるのだが、もっと世代が上にあたる作家の方が、いわゆる「マイブーム」になることが多かった。
このパワーズという作家は雑誌の書評を読んでいて、ちょっと読んでみるか、という気になった。「舞踏会へ向かう三人の農夫」という長編だ。

まず、タイトルでわくわくする。農夫?舞踏会?これを小説としてどう展開するのだろう。読んでいくと、ある写真が浮かび上がってくる。
アウグスト・ザンダーというドイツ人の写真家で第一次世界大戦の前後に活躍したようだ。肖像写真を中心に撮っている。この一枚の写真からインスピレーションを得て、作家は作品に向き合うことになる。
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これが、その写真。野原の道に三人の男が立っていて、ステッキをついたままカメラに目を向けている。これから舞踏会に向かうために正装をしていて、気取った雰囲気が漂っている。作家はこの三人を兄弟に見立てて、物語を作りだしていく。小説の中では世界大戦のことやユダヤ人問題のことなどが組み込まれていくのだが、もう一つの流れとして、1984年のアメリカを背景とした小説が並走することになる。
どうも、この作家は時間(時代)を越えて行ったり来たりする物語が好みのようだ。
第一次世界大戦が終わって70年がたっても普遍的な問題は残されている。

この小説の中ではキ―になる実在の人物がいて、それはヘンリー・フォードでありフランスのサラ・ベルナールなのだが、彼らのことも詳細に書いていく。車社会の草創期の帝王だったフォードが第一次世界大戦とどう関わったのか。アメリカがヨーロッパに首を突っ込むことはない、という反戦の雰囲気がどう変わって行ったのか。地下茎が拡がるように物語を進めていく手法だ。

ネットで調べて見ると、リチャード・パワーズは還暦を過ぎたくらいの作家で、ボストンで企業に勤めていたが、ボストン美術館でこのザンダーの写真展を見て作家になろうと決意して会社を辞め、二年間をかけてこの「舞踏会へ向かう三人の農夫」を仕上げたらしい。きっとすごい覚悟が必要だったんだろうな、と思う。
そんなに多作の作家でもないのだけれど、その後の作品を見ると、会社仕事で知っていたIT系の問題や音楽に特化した作品も書いている。

今は、彼の「われらが歌う時」という小説を読んでいるのだが、これは五人の家族の物語で、音楽を軸として進んでいく。ここでも、キ―になるのは、マリアン・アンダーソンという女性のオペラ歌手。1939年にリンカーンの彫像の前で歌って、それが大きな話題になった。7万以上の聴衆がそれを聴いた。話題になったのは彼女が黒人であったことによる。アメリカの公民権運動を、もう一つの物語としてからめさせていく。ワシントン大行進へとつながる話だ。キング牧師やマルコムXも登場する。

これを読んでいて、アメリカの歴史を眺めながらふと思うのだ。
「人間は時間を経ても変わらないものだな」と。トランプのような人間は遥か昔からアメリカにはいたのだ。排除が好きなマッチョな男として。そして、強いアメリカを目指すタイプ。何が強さなのかがよくわかっていない反知性の人間。

祖父が言っていたことを思い出す。彼の数少ない名言だ。
「人はどんな歳になっても発見がある。その発見に興奮しなくなれば半分人間をやめたようなもんだ」という言葉。「だからなんでもよく見ておけよ」と続けた。
70歳半ばに近づいて、天ぷらとフライの作り方を私の母に訊いて、メモをとっているような「変人」の祖父だった。母もメモをされるので、丁寧に話していた。
説明が終わると祖父は、「そうかあ、今までよく知らなんだよ」とこちらを見て言った。そんな思い出がある。その祖父が亡くなってもう50年が過ぎた。

# by wassekuma | 2018-08-28 09:52 | 文学  

町と街について、ふと思った

台風13号が去って、また蒸し暑い日々が続きそうだ。
台風が近づく前の四日間ほど青森・岩手の旅をしてきた。会社仕事を終えてから、いろいろな風景を求めて地方を歩くことが増えてきたのだが、特に東北には魅かれて出かけることが多い。
会社勤めの時には、仙台や福島などの東北の玄関口での仕事は多かったけど、北東北4県を回る機会はあまりなかったのだ。青森、山形、岩手、秋田の4県である。

それぞれに見どころのある地域だが、今回は見たことのなかった「ねぶた」を見るために、五所川原と青森をハイライトにした旅をした。「ねぶた」の語源には諸説があるようだが、「眠(ねぶ)たし」という説が気にいっている。なにかうとうとしている時に見る夢のようだからだ。荒ぶる魂というような感じのする大きな人形が、夜の闇の中に光を発して浮かび上がる。ほとんどが必死の形相で闘っている。眉がつり上がり、歯をむき出して何かと闘っている像が多い。

五所川原は立ちねぶたで高さが20メートルを越えるものもあって高いところから観客を圧するような形で立ち、30人を越える人がそれを押して動いて行く。車輪はトラックのタイヤほどだろうか。垂直の威容で道をゆっくりと歩いて行く。青森はそれと違い、横に広がる形の屋台状の上に大きな人形が乗っているという形だ。移動中に太鼓と笛の音が鳴り響いて、とりまいている人びとが掛け声をかける、掛け声は五所川原と青森では違う。道の周りには観光客がひしめいていて、この時ばかりは渋谷のスクランブルをも超えるだろう。

初めて見る立ちねぶたに圧倒されていたのだが、その時に、ふと頭をよぎったのは先年この五所川原の町を訪れた時に見た風景だった。駅前の人影もなく閑散とした風景の中に廃業したような古びたビルが立っていた。金属部分の茶色の錆や看板についた黒い汚れが目立った。動いている人間が視界に入ってこない。
だが、祭の日には駅前に多くの人たちが集まっている。法被を着た若者たちも多い。ねぶたの山車の中に「五所川原農林高校」というプラカードのグループもいて、おもわず小さな声で「頑張れ」と声をかけた。この町には、これだけの人がいるんだ、と思った。
話を聴くとこのねぶたの本体は9ヶ月ほどかかって作るそうだ。根気のいる作業だ。

表記の「町」が五所川原だとしたら、それから行った青森は「街」の雰囲気が漂っていた。田の横に距離を表わす丁の字をつけた「町」ではなく、土を重ねたものを通りが囲んでいる「街」は青森のものだった。東京で見かける店も多く、ビジネスホテルもあり、駅前はビルが林立している。土を重ねるとビルになる。
ねぶたの本番で気づいたのは、大きなねぶた屋台の前に大きく目立つ看板だった。大手企業の名前が記されている。電機メーカーの大手が目立った。それ以外にも建設関係や流通関係などの大手企業が参加しているのがわかった。手作り感のある五所川原との違いで企業のバックアップが強いのだろう。市長や国会議員も笑顔で手を振って歩いていた。

さて、祭のあとの様子はどうなっているのだろう。一年の中でほんの五日間ほどのエネルギーの発散になる祭が終わって、町は平静を取り戻しているだろう。人口の何倍もの人が集まり、盛り上がっていた祭は終わった。その後に、ありふれた日常が続いて行く。農作業では暑い夏の日射しも降り注いでくる。
日照りの時は、と思って、すぐに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩を思い浮かべた。暑さをしのぎ収穫の秋があり、そして厳しい冬がやってくる。暗い空の下で不便な環境に耐えながら冬と闘わなくてはならない人たちも多いだろう。老人も含めて。
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これがネットで見つけた五所川原のねぶたの様子。こんな祭でした。短い映像だけど。
今、これを書きながら、あの町の一瞬の賑やかさを思い出している。そして、最後に昨夜拡げて読み始めた本の巻頭の言を記しておきたい。もう40年ほども前に読んだ本の再読だ。
柳田国男の「遠野物語」。今回、花巻から遠野に急に行きたくなったのだが、こんな思いつきはすぐに台風接近のニュースで消された。旅とはそんなものだ。
その巻頭言とは「この書を外国にある人々に呈す」という一行だ。
長い時間を経て今理解した気がする。外国とは「ここではないどこか」の意味なのだ、と。自分の暮らす土地に足をつけて、その足でしっかりと立っている人々ではない人たちに、この物語を贈る、と柳田は書いている。
そして、もう外の国の人びとが一瞬にして消えたあの町ではいつもの風が吹いているのだと思う。

# by wassekuma | 2018-08-10 09:49 | 日常