ハノイの空の下で

先月の末から6日間をつかってベトナムのハノイを旅してきた。ハロン湾やチャンアン、ホアンキエム湖などを回り、ホアルー廟などの周辺を歩いた。
いつもの旅と同じように思いつくまま路地裏も歩く。賑やかな町並みの中にベトナムの人びとの生活が浮かび上がってくる。

ハノイは予想していたよりも寒く、それは旅行中はずっと同じだった。ベトナム人のガイドの話だと、最低気温が10度を切ると幼稚園や小学校は休校するということだった。暖房の設備がないからだ。そもそも暖房が必要ということを想定していない。

そうか、と思い当った。昔の日本もそうだった。エアコンの冷房のない頃には、暑い夏の風景は安上がりだった。私の住んでいた町では裸同然で町を歩く大人を見かけることは珍しくなかった。日陰に休んでいる老人も覚えている。子どもの頃に、公園で遊んでいる時に大きな木の下に横たわる老人がいて、死んでるんじゃないか、と友だち数人でとりまいてつついたこともあった。生きていた。
それに比べると、冬の寒さに耐えるための準備には金がかかった。炭団、練炭、湯たんぽの出番となる。もう炭団は死語だろう。練炭のほうはまだ時々耳にする。ネットで知り合った人たちの練炭自殺というニュースもあった。

ベトナムのガイドは最初は若い女性で、いろいろと案内する時に二度ほど「ベトナムは貧しい国だから」ということを口にした。その後に交代した青年のガイドも、同じことを口にする。二人とも三十歳にはなっていないが、子どもが二人いる。女性は男の子が二人、男性は女の子が二人ということだった。会社に属していても月給制ではないようだ。女性は日本での会社勤めを辞めた日本人がボランティアで日本語を教えてくれて、男性の方は「研修」ということで三年ほど名古屋の流通会社に勤めていた。週に一度しか休みはなかったらしい。そこで日本語を学んだ。

私にとってのベトナムは、20歳前後の頃にニュース映像で入ってきた。アメリカの空爆の風景、べトコンと米兵の熾烈な戦い、そしてアメリカ国内での反戦運動の高まりとしてのベトナムだった。
そして、変なもので些細なことを覚えている。アメリカのウェストモーランドという名の将軍が口にした言葉。「アジア人は仏教の教えで死をいとわないから、殺しても罪悪感を感じることはない」。確か、彼はウェストポイント士官学校出身のエリート軍人だった。怒りしか感じなかった。

そんなことを思い出しながら、今のハノイの街を歩いた。ハノイ市は人口が700万ほどのはずだ。以前に行ったことのある中国の長沙より少し少ない程度だ。
なによりも目を惹くのはオートバイの多さ。車道に溢れる様子は洪水と表現してもいいくらいだった。老いも若きもオートバイに乗り集団化して走って来る。二人乗りも珍しくなく、一度だけ見かけたのは、若い夫婦が幼児を三人抱えてバイクを走らせていた。五人乗りである。警察が注意しないのか、とガイドの人に聞くと、さあ、どうですかね、と苦笑いをする。

そのバイクを止めておくのが歩道になる。市内では歩道を歩くことが難しく、また大きな通りを横切るのも、信号が殆どないので危険を感じながら渡る。車道でのオートバイの逆走もあるので危ない。二日程したら結構慣れたのだけれど。そして、整備された歩道は少ない。埋められた煉瓦のようなものがはがれて飛び出している。

こんな混沌とした風景が次々と目に入ってくる。歩道の上で椅子に座って何かを食べている風景、四、五人の大人がドンブリを抱えてフォーを食べながら談笑している。
鉄の鍋を七輪の上に載せて豆を煎っている老人。歩道が家の延長になっているのだ。

忘れられない娘がいる。連れあいが木製のサンダルを買おうと店に行き、そこの女主人が商品の説明をした。小さなパイプ椅子を出して、私にも座れと言う。もちろん狭い歩道の上だ。おばさんは金槌を持ちながらサンダルを勧める。その向かいに座っていた二十歳くらいの女性が、春雨や焼いた肉をむしゃむしゃと頬張っている光景だった。彼女の娘かもしれない。黙ったまま何の遠慮もなく箸を動かして食事を続ける。時々、こちらに無愛想な表情のまま目を向ける。まるで自分たちがその家の昼飯どきに突然訪問したかのような錯覚に陥る。サンダルを売り込もうとしているおばさんが注意するわけでもない。狭い歩道の上のパイプ椅子に四人の人間が座っているので、そこをヨーロッパ系と見える旅行客たちも気をつけながら通り過ぎる。

懐かしいというのとはちょっと違うが、何かエネルギーを感じる風景だった。子どもたちも風景の中に溶け込んでいて明るい表情が見られた。この子たちも、あと四十年ほどしてから、公園で親と遊んでいたことを懐かしく思いだすのだろうか。
貧しくても楽しかった思い出として。親に抱かれてバイクで走っていたこと、その時に親の体温を感じたことなど、を。
50年ほど前には空から爆弾が落ちてくるという国に生まれて、平和を日常としている子どもたちだ。

戦前に日本で「亜細亜の曙」という言葉が拡がったことがあった。今のベトナムは曙の時期なのかもしれない。50年前に豊かな農村風景が拡がっていたが、空爆によって数年で廃墟だらけになり、そこからの立て直しをした。鉄道網も弱く、経済的な問題もある。タクシーに乗っても150円とか300円という料金だし、利用するのはほとんど旅行客という話だった。月収は三万円程度と言われるが、それで生活ができる。

全く違う風景に出会ったのは、ホーチミン廟に行った時だった。周辺に国会などの施設があり、その周辺は街とはかけ離れた風景になる。まず、入場料がいるので一般の人びとは余り入って来ない。純粋に観光用の空間だ。ゴミ一つ落ちていない空間で、あの混雑したカオスのような雰囲気は全く見えない。ひっそりと静まり返った風景の中で白い制服を着た人たちが廟の前を警備していた。交代をしながら24時間の警備らしい。そうか、ベトナムも権力ありようはこうなるのか、と思った。

一歩そのエリアから出ると、また混沌とした風景が拡がっている。この大きな格差。
空虚な空間から出て、バイクの洪水、鳴りやまないクラクションの音、人びとの声が飛び交う世界へと向かう。
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ハロン湾の夜明けの写真。この朝焼けの下に多くの家が密集していて、周辺の工事もどんどん進められている。発展途上ということだが、これから昇っていく太陽がくっきりと澄んだ青空に浮かぶことはない。
ハノイの空は黄色に近い空だ。東京に戻って空を見上げると透き通ったような青空が拡がっている。大気の汚染なのか土埃のせいなのか、結局旅の間に青空には出会わなかった。

旅から帰って時々思い出すのだが、あの喧噪や町の人びとの生きいきとした姿は、どこかで見たような気がする。遠い昔にどこかで。
心に廃墟を抱えて貧しいながらもエネルギーを発散していた時代。それなりの幸福感をもち、不潔なものも無礼なものもまだ許せていた時代の話。
旅をすると発見もあり、記憶への繋がりもあるということをまた感じさせられたハノイの旅だった。

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# by wassekuma | 2018-02-13 11:14 | 日常  

人工知能はどんな夢を見るのか

AIについて考えてみた。
人間はいくつになっても見たことがないものが世界に溢れているのを知っているし、よくわからない、あるいはまったくわからないものに満たされているのだが、このAIもその一つだ。

言葉については、人工知能ということはかなり前から知っていた。映画の「2001年宇宙の旅」@キューブリックの中にもHALという機械?が出てきて宇宙船の乗組員を支配するような形になっていた。この映画は1968年に製作されている。不思議な映画だった。ちょうど50年前か。
そして、このタイトルの2001年を過ぎて20年近くが経っている。はやい!

去年のことだが、AIが将棋や碁でトップクラスの名人たちに勝利したというニュースが目立った。機械に負けた棋士たちが困った様子になる表情をテレビは捉えていた。
こんな時代になっているのだ。演算能力とそのデータを蓄積したAIの強さ。膨大なデータの容量を拡大したのはIT技術の長足の進歩だろう。

昔の話になるが、40年ほど前の私の夢としては、そのうち三畳一間の生活からステップアップして広い部屋に住めるようになったら、大きな机の上にターンテーブルを置いて、大きなスピーカーで音楽を聞きたいというものだった。回っている33回転のレコードの上に針をのせる。その時のわくわく感。
ところが、すぐにアナログレコードがCDに変わった。そして、ビデオがDVDに変わった。CDもネット配信の音楽になりパソコンなどの端末で聴けるようになった。今、ウォークマンで音楽を聞いている人は皆無なのじゃないかな。私のCDウォークマンも整理箱の中に眠ったままだ。スマホから音楽を聞く時代になっている。

携帯電話が進化してパソコンの代用になるという想像はついていたが、インターネットの世界がこれほど人間を支配することは想像できなかった。若い人たちの中にはスマホを取り上げて、それのない生活すると不安感が襲ってくるという人たちもいる。
そして、IT長者という存在が生まれる。アメリカの長者番付のようなものでも、それが明確だ。100人ほどの番付でビル・ゲイツなど三人の人間が下半分の50人の収入合計を超えているという報道もあった。

そして今はAIが注目される。科学技術の発達が人間のありようを変えようとしている。人材の評価や適性も分析可能だとなったら、会社の人事分野はそれに依存して賃金のマトリクスも変わるだろう。人はそれを選びそうな気がする。もし不満が出たらAIのせいにすればいいから。

私は想像する。AIのスイッチを入れたくないのは政治を統治する権力者だけかもしれない。AIが出す評価が怖いの彼らだろう。あいまいさ、という本来は美徳にもなりうる性質をAIは持たないから。あいまいさを利用して利得を確保するのが政治家のありようなのだから、AIは困る存在だろう。
AIは「もし誤解を与えたなら申し訳ない」というようなあやまり方はしない。姑息な詫びだ。誤解したあんたらもいるんだよ、という理屈だからだ。某副大臣のことだけどね。あれまー。

G・オウェールが「1984」を書いた時のビッグブラザーのように支配することはないと思うけれど、怖い段階を想像する。それはAIの仕事を管理するのがAIだという世界のイメージだ。これで小説が一本くらい書けるだろう。

人間にできてAIにはできないことは膨大にある。それこそデータ容量はスーパーコンピュータの比ではない。列記するのは馬鹿らしいのでやめるけど、端的なものを挙げると「好き嫌い」だ。人は説明はできないけど好きなものがある。嫌いもある。それぞれによって違うが、例えば私は草間弥生の美術がどこがいいのかわからない。親しい人でガウディの建築なんか美しくない、と言い切れる人もいる。なんとなく、なのだ。もちろん好きな人も多いだろう。この根拠のないような感覚領域はAIにはないし、むしろあってはいけない。将棋で名人に勝ったといってガッツポーズをするようにはできていないのだ。今のところ。

そして、それに加えてもう一つ人間の不思議さがある。年齢を経ていくとわかるものがあり、それが新たな発見にもなるという事実だ。また、数年後の自分の好みはわからない。若い頃には好きでもないし、目の前に置かれると溜め息の出たような里芋の煮物なども今では好物になっている。昔は、「じいちゃんは好きだけど、どこがいいんだろうな」と言っていた里芋だ。嫌いから好きに転じた。
学生時代の読書でそれほどの興味がなかったゾラやバルザックの小説が、今は面白い。200年近くを越えても現代的に読めるからだ。そして、呟く。歴史は繰り返すものか、と。

さて、IT技術の作りあげたネット社会とか仮想通貨などのヴァーチャルな歴史はどのように繰り返されるのか。人間が顔や声を失い野生としての匂いも失って、親が一世一代の詩人になって子どもにつける固有の名前を失い、全ての人間がコードネームで存在する。こんな小説が思い浮かぶ。タイトルは「2050」。

今かなりの速度で近づいて来ているAIの世界についていろいろと書いたけど、若い頃に考えていたことを思い出す。得ることがあると失うものがある、という法則。
スマホの便利性や機能性に引きこまれて歩きスマホをしている人は、周囲の状況を感じるような動物的な勘を失っている。「野生の思考」が稀薄になっていく。

おそらく今の自分にとって「わからないもの」を知ろうとすることと知る必要はない、と区分けするのは自分の野生の思考だろう。そういうことだ。
従って、最近世情で話題のビットコインのことは知らないし理解する気もない。仮想通貨で利益を得る仕組みは知らなくても、目の前の千円札で何ができるかを知っていればやっていけるのだから。
それよりも漠然とした夢を描いていくことの方が愉しい。人間にとって夢を描くことはプライスレスなのだ。そして気づく。値段のつけられないものの貴重さを。
所詮、値段のつくようなものは値段のつけられないものを超えることはできない。
これが、AIが夢にも思いつかない人間の価値なのだと思う。

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# by wassekuma | 2018-01-29 10:20 | 社会  

時代の空気について

昨年の末頃に興味深い本を読んだ。ユダヤ人問題を考えていくきっかけにもなったのだが、若い頃に読んでいたユダヤ人に関するものや、ヨーロッパの中での時代の動きを調べてみるかという気になった。

それが拡がって、チェコのミラン・クンデラを読み返してみたり、若手のフランスの作家、ローラン・ビネの「HHhH・プラハ1942」という小説を読んだ。
この本の変なタイトル(アルファベット4つ)は「ヒムラ―の頭脳はハイドリヒと呼ばれる」というドイツ語を略したものだが、ナチスの高官だったハイドリヒがチェコのプラハでイギリスの支援を受けたテロリストに暗殺されるという史実に基づいた小説だった。上官のヒムラ―(親衛隊SSのトップ)の部下だったが、様々な政策を実行していったのがハイドリヒでそのハイドリヒの部下があのアイヒマンという図式だった。

最初に述べた興味深い本というのは、デボラ・リップシュタットという歴史学者の書いたものだ。「否定と肯定」というタイトル。デヴィッド・アービングという歴史学者が「ホロコーストはなかった」という趣旨の論文を書いて、自らの講演のなかでもそれを主張しているのを批判した本を出版したら、そのアービングから名誉毀損で訴えられる。その裁判の経過を書いた本だった。示談などの交渉をせずに真っ向から裁判闘争に挑んでいくリップシュタットが記録として残し、それが映画化もされた。こんな感じの映画だ。
"https://www.youtube.com/embed/IR78MmN7IFo"
リップシュタットを演じたレイチェル・ワイズや弁護士役のリチャード・ランプトン、デヴィッド役のティモシー・スポールがいい演技を見せる。イギリスで作られた映画。
この映画を見て、かなり昔になるがある雑誌が「ホロコーストはなかった」という記事を掲載し、それが原因で廃刊になったことを思い出す。こういった雑誌は時代を反映させるということなら、あの頃からそんな空気はあったのだろう。

今の日本の状況を見て思うのは、一定数の量で「排除の思想」を掲げることで快感を覚える人はいるし、それが権力の中枢にもあって時代の「空気」となっていることだ。もし、今、古代のギリシャ喜劇の作者が芝居を書くとしたら、材料には事欠かないだろう。悲劇の裏返しの喜劇として。

この映画のラストでは、裁判を終えたアービングが自分の見解を変えることなく語るシーンがある。メディアもそれに追随している。それが「空気」だ。
今のヨーロッパではネオナチの動きもあるし、一定数のヒットラー崇拝者もいる。アメリカの大統領もアフリカや南米の国に対する差別的な発言をした。小学生の悪ガキと変わらないような言葉を使って。世界がネット化していくなかで、無神経に受け止められている「言葉の軽さ」の次元だ。

ためらいや後ろめたさ、誰かが見ている自分の姿、そういったものを捨象して語ることがヒーロー視されるようになっていく。思い切りがいいほうが拍手を浴びるのだが、馬鹿の思い切りほどこわいものはない。そんな風に思った。
そして、もっと怖いのは、そういった言葉を発する人間を、忖度したまま腐敗していく人間たちだ。ナチスのシステムはそれによって支えられていたのだから。
アイヒマンは「自分は職務に忠実だっただけだ」ということを言って、忠実な官僚であったことを強調した。しかし、イスラエルの法廷に立つ彼は、感性の腐敗と想像力の枯渇を知らなかった。

ドイツの作家ヘルマン・ブロッホは「知られざる偉大さ」と「罪なき人々」という作品で、ナチスの時代の空気、時代精神を描いた。その当時、ナチスを支持して歓呼の声を挙げた人々も「罪なき人々」だったのだ。もうこの作品も読まれてはいないのだろうけど。
時代による「空気」の成分は気にしていたほうがいいと思う。
とりあえず、メディアの作りあげる空気にも消臭剤が必要かもしれない。ニュースの取り上げ方を見ていても、時々首をかしげる場合がある。本来は掘り下げることが大切な報道案件がどこかに消えている。いろいろな目眩ましで霞んでいるような印象を受ける。
正月早々にそんなことを考えた。
最近話題になっているAIについても考えたが、それは次回にでも。

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# by wassekuma | 2018-01-15 10:57 | 映画  

正月の風景

年が明けました。明けましておめでとう。
まあ、こんな言葉を六十年以上繰り返したわけだが、子どもの頃は何がおめでたいのかよくわからなかった。

長じてくると、今の時間を生きていることを仲間たちで喜び合うという儀式なのだとわかる。イベントとしては、クリスマスや地域のお祭りなどもあるし、最近ではハローウィンなども街の風景としてはある。
しかし、暦の上で年が代るというというのは、やはり大きな節目になる。

はっぴいえんどの曲で、「春よ来い」という歌がある(松任谷由実じゃないよ)。正月を迎えた時の若者の心象を歌っていて、私もよく口ずさんでいた~ちょっと音痴。
「お正月と云えば 炬燵を囲んで お雑煮を食べながら 歌留多をしていたものです」という歌詞で始まる。今は一人で除夜の鐘を聞いているこの青年は、おそらく故郷から離れて東京で暮らしている。後半の歌詞ではこうなる。
「だけど全てを賭けた 今は唯やってみよう 春が訪れるまで 今は遠くないはず」
家族の団欒から遠く離れてしまっている現在があり、それは自分が何かに賭けたことで生まれている現実。こんな気分を自分も味わったことがあるなあ、と思う。
歌の最後に繰り返される「春よ来い」という言葉をかみしめて聴いていた。

テレビのニュースは三が日にはどこかに消えてしまったようだが、こんなニュースが報じられた。渋谷の風景が映り、正月を祝して群衆が集まるために警官隊が警備のために出動しているというニュースだった。あれまー、やれやれ。
その風景には外国人が多く見られた。もう慣れたけど。なんか、騒ぎたいことがあると渋谷のスクランブル交差点というのはいつから始まったんだろう。
映像的にはおいしいのか、メディアがその群衆を取りまいていく。

学生時代の渋谷はうらびれた大人も多かったと思う。名画座に入っても、無気力な雰囲気を漂わせたサラリーマンがいたし、日常に疲れたような中年の男たちが集まっていて、私たち若い連中を睨みつけるような雰囲気の酒場もあった。
私は、あんな大人にはなりたくないな、とぼんやりと考えていた。いつかなるかも知らないけれど、とも思った。
道玄坂辺りで学生と機動隊がぶつかりあっていたような時代だ。街には火薬のような匂いが立ちこめていた。
何よりも夜になると暗い道が多かった。

家で暮らす相方と話していたら、「昔は正月が終わるとさびしかったよね」と言う。
今は、そんな気分になることはないけど、と言葉を接ぐ。彼女も子どもの頃の正月を思い出している。一人娘に眼差しを向ける両親の風景。
おそらく、それは正月が色濃い時代の話だろう、と私は言った。今では、正月は薄味になっていて、昨日の続きでしかない。正月を感じさせるのは、正月の休みを返上して年賀サービスとばかりに安売りを連呼するTVコマーシャルだけだ。9日までは安売りだよ、と騒ぐ。スマホやパソコンのゲームも今なら無料。なんだ、いつものことじゃないか。しかし、ゲームのコマーシャルが多いな。わけがわからん。

一つだけ正月の記憶をあげておきたい。これ以外でも多くのエピソードがあるのだけれど。
父親の思い出と繋がるのだけれど、河原でした凧揚げの記憶だ。

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幾度も書いているけど、尼崎市と西宮市の境に武庫川という川が流れていて、その近くで私は幼少時代を過ごした。そこでの正月のうっすらとした記憶がある。父親と一緒にした川岸での凧揚げだ。たしか、その頃に住んでいた社宅の友だちもいたと思う。
なんどやってもうまく揚げられなかった私に、父は「おまえは凧をあげようと力が入りすぎる。風に任せりゃええんや」というようなことを言った。

そして、父は私たちの見ている前で空高く凧を揚げて見せたのだった。記憶は今の自分が彩色をほどこして甦らせるものだが、大瀧詠一が歌ったように、モノクロームの思い出が天然色に染められて、凧の背景には正月の澄み渡った青空が拡がっている。私は、この時にはじめて「風に任せる」という大人の言葉を聞いたような気がする。いい言葉だ。
高校生の頃に、この記憶を確かめると、父はまったく覚えていなかった。子どもたちの前で高く凧を揚げてヒーローのようになったことも。

父はあの鉄の町が好きだったのだと思う。鉄鋼の会社に勤めていた。尼崎の工業地帯に会社があって、正月には独身寮の若者たちを含めて多くの人が年始の挨拶に来た。朝から酒を飲んで騒ぐ大人を私は見ていた。多い時には延べ20人くらいが集まってきた。中には猛者の若者もいて、朝の9時頃から夕方の6時くらいまで座っていた。おそらくいくところもなかったのだろう。酒や料理をふるまう母が大変だった。母にとって正月は「おおごと」だったのだ。私が小学生の頃には、時々手に入るお年玉が嬉しかったのだが。酒臭い男やポマード臭い男が私を呼んでお年玉をくれた。

そんな時代が過ぎて行った。父が四十を過ぎた頃からは、親子三人で元日を過ごした。時々親戚がやって来るくらいの静かな正月だった。
あの頃の正月の風景はそんな感じだった。元日のデパートの福袋に群がるような風景もなく、もはや歌留多や凧上げ、福笑い、はねつきも死語になっているのだろう。子どもが体を動かせて楽しむ遊びがあった。
それを見ている親の眼差しや笑顔もあった。家族での思い出を色濃く漂わせるものだった、と思う。

そして、多くの人たちは心のどこかで「春よ来い」と願っていた。
今でも数は少ないかもしれないが、どこかで子どもたちが凧揚げをしていると思う。もし、自分がその場に居合わせたら「風に任せろ」と呟くような気がする。風に任せろ、力を入れ過ぎるな、と。

ということで、今年が始まりました。どんな面白いことが待っているのか愉しみ。
今年もよろしくお願いします。

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# by wassekuma | 2018-01-03 11:16 | 日常  

年の終わりに

今日で2017年が幕を閉じる。大晦日、大つごもりの日だ。
恒例になっている大掃除も終え、日記の最後に記す今年の十大ニュース(公・私)も書き終えている。しかし昔の記憶では、大晦日はもっと大騒ぎだったなあ、と思う。

畳をひっくり返したり、窓からなにから雑巾で磨き上げていた。子どもであってもぼんやりとしていることはできない。私も立てかけた畳を叩いて埃をかぶっていた。いいのか、あれ。濡らしたちり紙を散らして畳を掃くという作業を母がやっていたり、父が天井を箒で掃くという作業をしていた。無駄な作業に思えた。頭にタオルを巻いて箒を振りまわす父親の姿。なんで、あんなにむきになって掃除をしていたのだろう。町のところどころで何かを燃やす匂いが漂っていた。はい、昭和の風景。以上。

予定の原稿を終えて、遊び回っていたら風邪をひいた。その時に、これもむきになって本の整理を始めて、懇意にしている古書店に段ボールで7箱ほど本を引きとってもらった。それで、余計に風邪がひどくなった。まあ、そんな風にしているうちに大晦日を迎えた。

今日は映画の話でしめたい。
今年は一年で45本の映画(但しDVDを含む)を見たが、映画で記憶に残ったのは、ニコラス・レイの2本、特に「危険な場所で」がよかった。あと、フリッツ・ラングの「飾り窓の女」。
今年の初めの頃には、増村保造の古い映画を立て続けに見た。夏になって、アンジェイ・ワイダの「残像」というタイトルの遺作がかかったので、見に行った。ほんとうに彼の遺言とも思えるような映画だった。そして、今日のテーマのアキ・カウリスマキの映画。今月見た映画だ。タイトルは「希望のかなた」。

カウリスマキはフィンランドの映画監督だが、小津安二郎への傾倒でも知られている。この人の映画を初めて見たのは、40歳に入ったばかりの頃で、「コントラクト・キラー」という作品だった。何か不思議な味わいの監督だと思った。大体、この映画を見に行ったのは、監督目当てではなく、主演のジャン=ピエール・レオを見たかったからだ。「大人はわかってくれない」@トリュフォーの子役だった彼がどのようになっているのか、という興味だ。

カウリスマキは、「浮き雲」「過去のない男」「街のあかり」という三本を評論家から「敗者三部作」とか「負け犬三部作」と称されるような監督だ。例えば、会社を解雇されたり記憶を失ったりして、困っている人間を中心にして描く。何をやっても失敗したり、希望をもっていてもそれがかなわないという人たちが描かれる。

彼らは、誰が言ったのかは知らないが「一億総活躍」という言葉とは無縁だ。いつも困っている。そして、困っている人間に手を差し伸べるのは、同じように困っている人間なのだ。決して、余裕に溢れた人たちではない。人の苦境に手を差し伸べようとするのは苦境を味わった人たちだ。その関係に柔らかな光が射すような希望が感じられる。カウリスマキはそのような色調の映画を作っている。
これが予告編。前回に公開された「ル・アーヴルの靴みがき」のストーリーに続いて移民問題を扱っている。移民や難民とは、今自分が生きている場所を捨てざるを得ない人たちのことだ。差異があるとしたら、何か希望と呼べるものを持ってここではないどこかをめざす形か、自分や家族の命を守るために故郷を捨てるという形の区分けができる。懐郷の念は同じように見えても・・違う。

この映画もシリアからヘルシンキに逃げてきた青年の物語だ。家族を戦乱で失ったが、妹だけは逃走の途中で行き別れていて生死が不明だという設定で物語は続く。
前にも触れたが、難民は命がけで異国を目指す。小さな舟で波を越えてやって来る。この物語ではレストランのオーナーが青年の窮乏を救おうとする。

相変わらずのカウリスマキ節で、間のとり方や無表情での表現が面白い。役者たちに明るく笑うような演技は余り必要がない。但し、無愛想な中に暖かさが漂う演技は必要とされる。少ない台詞で表現するということでは珍しくはないが、やはり彼のこだわりにおける持続性には感心する。

同じようなテーマ(困っている人たちの物語)を粘り強く追い求めている姿は、続いているものはやがては終わるという原理を前にして、続いていることに意味を見いだす、という作家の覚悟のようなものを感じるのだ。

そこで、ふと思うのだ。彼が、小津の映画に傾倒するのは同じような覚悟を感じるからではないか、と。流行にはそこそこつきあうけれど、芸術に対しては自分の流儀だ、と小津は言った。
カウリスマキが映画の中で、日本の歌を入れたり、日本の風俗(今回は、かなりずれたセンスの寿司屋)を描くのも小津へのオマージュのように思う。
小津映画の寿司屋のシーンとは大違いだけれど。

さて、今年も終わりです。この一年も読んでいただいて、ありがとう。
また、来年も時機をみて書いていくつもりです。  それでは、よいお年を。



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# by wassekuma | 2017-12-31 14:17 | 映画  

廃墟について 3

昨日、伊豆の旅から帰って来た。
修善寺から入った鄙びた温泉町で、ここでも過去の隆盛を思わせる廃墟を見つけた。
その前に、渋谷に出かけてアキ・カウリスマキの映画を見て、それから恵比寿の写真美術館でユージン・スミスの写真展を見るという一日があった。

カウリスマキの映画は次に書くとして、今回はスミスの写真について。
過去を振り返ると、写真に興味を持ったのは高校三年生の時だった。
父親が東京に転勤になり母が同行することになったので、受験を控えた私は単身で大阪の池田のアパートに住むことになった。受験までの一年をそこで過ごした。

今のご時世で見ると、変な感じだ。普通は父親だけの単身赴任が多いと思う。おそらく、その状態には父の発想があったのだと思っている。父は中学生の頃から郷里を離れて西宮での一人暮らしを経験している。西宮にある私立中学に通うためだ。
なぜ、松江を離れたのか。それはまた別の話。
そして、自活していくことを強いられた私が、どのような馬鹿げた生活をしたか、これもまた別の話。

その時期に、私のアパートは高校の同級生の溜まり場のようになった。その友人の一人にNという写真マニアの男がいた。彼が私のアパートに来て、一冊の写真集を貸してくれた。おれがこんなに興奮した写真はないぞ、と言って。
それが、奈良原一高という写真家の「ヨーロッパ・静止した時間」という写真集だった。それまで写真には全く興味のなかった自分にとっては、モノクロの画面がとても新鮮に思えた。光と影だけで構成された写真群を見ていると、なにか全ての風景が幻想的な廃墟に思えたのだった。確か、以前に行った「軍艦島」の写真も奈良原は撮影しているはずだ。写真で切り取った一瞬は「死」をも感じさせた。

それから多くの写真家の作品を見るようになり、大学に入学した頃には自分でも写真を撮ることに熱中していったのだ。入学直後のアルバイトで買ったのはペンタックスの一眼レフだった。土門拳・木村伊兵衛・ブレッソン・キャパ、そして写真家集団のマグナムに属する写真家たちの写真をよく見ていた。
この写真はスペイン戦争によって難民となった少女の写真だ。今話題になっているバルセロナで撮られたものだ。キャパはスペイン人民戦線の戦いを克明に捉えている。

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この眼差しに衝撃を受けた。この子はカメラを意識して眼を向けているが、悲しみを通り過ぎた虚しさを感じさせる。横にあるカラフにはもう水は残されていない。足元に置かれた汚れた袋には何が入っているのか。寄りかかる布袋には小麦でも入っているのか。何よりも、この少女の家族たちは生きているのか。彼女の家族や友人に犠牲者はいるのか。
この写真を拡げていくと、爆弾や銃弾で廃墟のようになった街が見られると思う。全て、大人のなした仕業である。子どもたちはスペイン軍部と共和派との戦闘なんてなんの関係もないと思っているだろう。そして、今は難民としてどこかの土地に移動しようとしている。それまで自分たちが歓声をあげて遊んでいた街はもう廃墟となっている。

キャパのスペインの写真では銃弾を受けて倒れる兵士の写真が有名だし、決定的瞬間という意味では評価が高かった(これについては沢木耕太郎が疑義に基づいて考証している)。でも私は、この写真が最も印象に残った。これは、もう彼女にとっては「静止した時間」なのだ。写真中央の少し下に白い靴下が見える。この子はこれからどれだけの道のりを歩いていくのだろうか。わずかな光のように感じるのは、この少女の羽織っている上着だ。寒いからと誰かが羽織らせているような感じがする。大人が手を差し伸べているような。

次に、ユージン・スミスの写真。これも、戦争写真を撮っていたり特定の医師の活躍を追いかけてシリーズにしていた彼が、ふと撮ったような写真だ。この子どもたちには光がある。

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これは有名な写真だ。
この写真はスミスの二人の子どもを写したもので、タイトルは「楽園へのあゆみ」とつけられている。木々の間を抜けて光の中に出ていく子どもたちに、ユージン・スミスは希望のイメージをもつタイトルをつけた。この先に何が待っているのかもしれない子どもたちの姿だ。楽園だろうか。
この写真が好きで、ポスターを学生時代に吉祥寺の三畳一間の壁に張っていた。部屋の割には大きなポスターだった。
この写真は上のものとは違って「動いていく時間」をイメージさせる。大人の起こす戦争の愚かさを見てきたスミスが、自分の思いを託した写真だと思う。

これからどこに歩いていくだろう、という思いは年齢には関係ない。人はどの時点でもそのような思いをかかえるものだろう。
廃墟についていろいろと思いは浮かぶが、時間の流れに従った廃墟からは大きく枠を越えて、人為的に廃墟になってしまうことを人間はおこなうものだ。広島のドームは時間の経過でああなったのではないし、今ではシリアなどの中東エリアでも廃墟が国中に広がっている。大人の思惑でそうなった。

以前のニュースで、イギリスの首相が、難民の三歳の子どもが舟の遭難で溺死した報道を涙ながらに語ったということが流れたが、私は呆れた。イラク攻撃をする時に、イギリス軍の空爆によって何人のイラクの子どもたちが死んだのか、ということを知らないのか、と。戦争被害で多くの人々が精神的な廃墟を抱えることになったことも知らないのだろう。
そして彼らは言い続ける。国の平和のために、国民の生命と財産を守るために、と。
今までの歴史で繰り返されてきたことだ。平和のために、そして国民を守るために始まるのが戦争であり国内での紛争だった。

今日は、二枚の写真を紹介した。
年末までにはもう一本書けるかな。「敗者三部作」の映画監督と言われるアキ・カウリスマキのことでも。


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# by wassekuma | 2017-12-22 10:37 | 写真  

廃墟について 2

もう師走も半ばになっている。はやいなあ。
今年最後の応募原稿がようやく完了して一週間が過ぎた。今回の作品は400字詰め300枚というボリュームだったので構成には苦労した。
小説の舞台は過疎地。老人たちの寄り合いを描くために想像力を駆使せざるを得ない。老人たちにも町起こしという考え方と、もう滅びるのに任せればいい、という二つの考え方がある。これを集まった人たちが議論する。そんな情景も描いた。

前回触れた三陸のエリアでも震災時の崩壊した建物を残すのか、撤去するのか、という議論があった。将来に向けて悲惨な歴史をモニュメントとして、また教訓として残したいという考えと、その建物にいて津波に流された肉親がいるので、それを見る度に思い出す、速く工事をして更地にしてほしい、という考えが向き合っていた。

忘れる、忘れない、という問題だともいえる。滅びたものや亡くなった人たちが残しているのは、今生きている人々であり、それは明確な区分だ。それは、建物という具体的な形だけではなく、思い出とか記憶としてそれぞれの人々に残っている。そして、残された人々は今を生きるしかない。

旅をしていて、滅びそうな町並みの風景を見ることがあるのだけれど、そこでも人の声が飛び交い、人間同士のつながりがある。今年は帰省を含めて15回の旅をした。今月の後半も予定している。スペイン旅行、夏の木曽路と秋の東北は印象に残っているが、先月の和歌山・加太への旅も印象的だった。これも友ヶ島にある日本の陸海軍の廃墟をみるのが狙いだった。なぜか廃墟に惹かれる。

こんな和歌山の小島に砲台を設置して意味があったのだろうか。記録を見ると、この砲台は一度も攻撃をしたことはなかった。防衛にはならなかったという事実だけが残された。敗戦前に準備されたが、沖縄戦があり広島・長崎への原爆投下があり、和歌山の海にある小島は沈黙していただけなのだ。
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この倉庫には弾薬関係が保管されていた。70年を経た今でも廃墟として残されている。おそらく戦時の際には兵士たちがしきりに行き来していたのだろう。今では友ヶ島は無人島になっていて、夏の時期だけは海水浴の客が訪れる。それ以外の時期は草木の茂る荒れ果てた風景が拡がっている。海の家らしき建物もあるが、もう営業してないだろうというような廃墟同然の家もあった。

何の役にも立たなかった砲台と弾薬庫。この島に加太港から船で資材を運んで建築した人たちのことを考えると、虚しい気持ちになる。そして、国土防衛という旗印の下で集まっていた兵士たち。若い兵士が多かったと思う。
このような風景を見渡していると、あの時に歩き回っていた人々の声が聞こえるような幻想までもってしまう。多くの声が消えた。

海に囲まれた小さな島で一時期は賑わいを見せていたという人々の生活は、長崎の軍艦島や佐渡の相川などでも見てきたが、全てが廃墟になっている。炭坑、金山、そして、この友ヶ島の軍隊。そこには多くの働く人がいたということなのだが、もう記憶さえ残ってはいない。
南海電鉄の和歌山市駅の風景もさびしかった。駅の前にいた数人のグループが食事をしようと町を歩き回っていたが、閉じられた店だけが目立つ。人の姿も見えない。結局は見つからなくて困っていた。

政府が大臣まで配置する地方の活性化というお題目は空に浮かぶ雲のようなものだ。つかみどころがない。お題目ではない雲を眺めながら、また旅をしていく。そして、風景の中で土地に根ざす人の言葉を聞いていく。自然体で生きている人たちの言葉は素直に伝わってくる。一期一会の人との交わりは大きな旅の愉しみだと思う。

その旅の記憶を頭の中に巡らせながら、また工事現場の街に帰って来る。到るところにクレーンが立ち、バベルの塔のような建築を目指し、地面の上では、グローバル混雑、交差点の写真撮影で有名な街、渋谷に。この街に漂うのは金の匂いだ。見えない紙幣が空を飛び交っている。街に立つ人は広告宣伝に目の色を変える。
いつからこんな街になったのだろうか、とふと考えてしまう。

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# by wassekuma | 2017-12-15 09:28 | 日常  

廃墟について 1

あれま、前回のブログから随分と間があいた。
理由としては重い原稿を抱えたことだが、それに加えて自分の行きたい所への旅が続いたこともあった。そして、恒例の箱根での集まりもあり、いろんな予定が入りこんできた。

重い原稿というのは、今回チャレンジしている作品が、今までには取り上げていない過疎の村を舞台としていることだ。モデルは93歳になる老母の故郷で、島根県の山裾にある町である。町とは言っても、5000人を切る人口で人口密度は1平方キロに20人という町だ。1キロを歩くのに15分といわれているので、1時間を歩いて正方形を作っても、その中には20人の人しか住んでいないということになる。
そして、これは多くの過疎地で見られる現象だが、若い人の姿は見えない。みんなどこに消えてしまったのか。そのような現実をどう描けるか。

先月の末に仙台から南三陸の旅に出た。南三陸の町を歩くと、空に突き刺さるようなクレーンの穂先が見え、多くの盛り土が拡がっている。
そこで、考えてしまう。一体、誰がこの盛り土の上に住むのだろうか、と。
高齢者がどうして家を建てて住まいとできるのだろうか。残りの時間を考えても。
あの震災から6年余りの時間が過ぎた。
宮本常一の書いた「忘れられた日本人」という本を連想する。ここで生活していた人々のあれからの時間、そして、今は東京オリンピックに間に合わせるためにスタジアム建設に集中して躍起になっている日本の姿。

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この数年の旅で意識したわけでもないのに、廃墟を巡ることが多いのに気づいた。島根県の石見の銀山、長崎の軍艦島や福岡の田川の炭坑跡、佐渡の相川の金採掘跡など。最近も和歌山の友ヶ島の陸海軍の砲台の廃墟を見にいった。ここで、遥か昔には多くの人が集まり、声が飛び交い、しっかりとした生活があったはずだ。そして、今は、雑草に荒らされ誰の姿も見えないような状況を呈している。

これらの廃墟の風景を眺めていると、昔ここで集まっていた人々の息遣いや声までが漂っているような感じがする。この南三陸の写真も、土木会社や建設会社がこの地に乗り込んでいるのだけれど、あの3.11の前には穏やかな町の風景があったのだろう。

地元の人の話で印象に残った話があった。東日本JRが震災直後には、必ず鉄道を復興すると言ったが、結局は鉄道の再開は見送ったと言う話。今では老人が大多数を占めるこの地域では鉄道がなければ移動手段がない。話題になった「さんさん市場」という新たな商店街はを見たが、駐車場に並んでいる車は、老人の運転でここまで来てはいないだろう。こうして、忘れられる人々はひっそりと暮らしを続けるしかないのだ。
明治29年の三陸地震の際の国の動きは吉村昭の作品でも読みとれるし、関東大震災の後に復興のスピードも加速化した。そして、自分の故郷でもある阪神淡路の震災の時にも神戸の復興が速かったのを覚えている。
それに比して、今回の東北はどうなのか。復興相がいて復興庁があっても、何が具体的に動いているのか見えない。土木・建設は進むが、それと並行する人々の暮らしの問題がどうなっているのか。地域の人々には自力・自生しか手段はないのかもしれない。復興大臣や地方創生大臣は次々と失言を繰り返して話題にはなるのだけれど。そんな活躍をしてどうする?
先に述べた和歌山の旅でも感じられたが、いろいろなところを歩いていると、日本のもう一つの姿が見えるような気がする。光と影ということだ。

旅から帰ると、テレビでは日馬富士の事件で大騒ぎしている。どこまで引っ張るつもりなのか、メディアは。
まあ、旅から帰って日常が始まる、というのはいつも感じることなのだけれど。

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# by wassekuma | 2017-11-28 10:42 | 日常  

10月はたそがれの国

一昨日、誕生日を迎えた。67歳になった。
昨日は60歳で亡くなった父の命日だった。私が30歳の誕生日を越えた翌日に父はこの世から消えた。
ちょうど誕生日の日に友人と父の入院していた神戸の病院に行った。この時期には私は東京からしきりに帰郷していたのだ。父のベッドの横で、今日は自分の誕生日だと友人に話したら、横たわっていた父がこちらに目を向けて指を三本立てた。もう口をきくのも面倒だったのだろう。眼差しで伝わった。息子に対して、おまえは三十歳になった、と示したかったのだ。

あれから37年が過ぎた。今パソコンに向かいながら、このブログは何回目になるのか、とふと思って調べたら、297回になっていた。
ちょうど還暦を過ぎて始めたものだが、カテゴリー別にみると、やはり日常・社会の項目が160回近くで、文学の項目が60回になる。映画が44回。

自分の好みが集中したものだ。そして、今日の題目はカズオ・イシグロについて。
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若い頃の彼の写真。この人の作品は5年ほど前に映画「日の名残り」をDVDで見て、それから原作を読んだのがきっかけだった。この映画はジェームズ・アイヴォリーという監督に興味があったので見た。「眺めのいい部屋」という作品で注目された監督だ。珍しく、原作と映画の両方が好みにあったものだった。ジェームズ・スティーブンスという執事が主人公で、父子二代にわたってイギリスの貴族の館で働いている。このスティーブンスを演じたアンソニー・ホプキンスがいい。時が流れて、彼が女中頭だったケントン(エマ・トンプソン)と再会してから別れるラストシーンは印象に残った。

執事という仕事は冷静に正確に仕事をこなしていくものだ。自らの感情を押し殺して、無表情に仕事進める。多くの決まりごとを淡々と進めるのだが、彼も人間としての感情は持っていて、その心の奥と自分の仕事の流儀の葛藤が秘められていくという仕組みの小説だった。日本人であるという自覚の下に、イギリス社会の物語を書いていくことによって、イシグロは自分の影を作品に投影しているように思えた。

単純に祖国喪失者という見方ではない。著名な小説家で祖国から離れて故郷を書いた例は少なくない。J・ジョイスの「ダブリン市民」をまず思い浮かべるが、母国のアイルランドから遠く離れた異国の地でダブリンを描いた。ナボコフやベケット、そして、クンデラ、カフカなども母国語とは違った言語で表現した。
そして、カズオ・イシグロも日本語で小説を書くことはないだろう。「日の名残り」から彼の作品群を読み進めたけれど、日本を背景にした作品も残している。

この作家に興味を持ったのは、自分と同世代の作家ということもあった。フランスの作家、パトリック・モディアノやアメリカのポール・オ―スターもほぼ同世代。自分と同じ頃に生まれて世界の変動を見てきた作家たちだ。そこで、共通するテイストを感じた。

この作家たちは「記憶」ということにこだわっている。記憶を追い求めること、それが正確なものではなくて、幻想ではないか、という曖昧な領域も含めて描こうとする。自分の記憶を探し求めていく。
P・モディアノなどは主人公が戦前の新聞の写真を見て、その人間を探すという物語まで書いている。なぜ、それほど過去と記憶にこだわるのか。

ぼんやりと思うのだけど、おそらく「何かを伝えたいという願望」が極めて強く、それが書くことに繋がっているのだろう。あの頃の「時代」を隠喩として拡げていく。
それが、単なるノスタルジーに終わるものなら小説にする必要はない。昔はこんな風によかったんだ、というのはわかりやすい嘘だからだ。そんなことをあの頃は感じていなかった。生きていていいか悪いかは今でしか感じるはできない。その今(現在)が記憶として自分の内部に堆積していく。そして、ふと甦ったものを掘り下げていく作業が始まる。何かを見つけるために書いているようなものだ。

結局、ものを書いていくことは、洞窟を歩き回って何かを探していくという行為に似ている。一行先が読めないのだから。自分と同世代の作家のことを考えていたら、そんなことを思った。
そして、この作家たちも自分と同じように「たそがれの国」の住人なのだ。彼らには「たそがれの国」の風景がどのように見えているのだろうか。

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# by wassekuma | 2017-10-14 07:01 | 文学  

言葉の浮遊について

政局の動向が混乱している日々が続いているが、最近になって気になる言葉を耳にした。「愚直」という言葉だ。首相が愚直に政治に取り組むと演説で声をあげていたが、この人の言葉ではないと思ったのだ。

「愚直」を辞書でひいてみると「[性格などが]ばか正直で、臨機応変の処置がとれなかったり、損な役割を負わされやすかったりする様子」と書かれている(@三省堂・新明解国語辞典)。どう考えても今の政治のありようが「愚直」という言葉にはあわないのだ。
自分の好きな分野として、今までに読んだ小説、物語と言ってもよいが、愚直なものとしてあげられるのは次のようなものだ。(今思いつくものとして二人の作家にしぼると)谷崎の「お才と巳之介」、「痴人の愛」「富美子の足」、芥川の「尾生の信」や「仙人」「毛利先生」などである。共通に愚かしさを描いているが、結果的には悲劇的な様相を表わす。「仙人」や「毛利先生」は児童文学なので違う形だが。ほんとに愚かと言ってもよい欲望にとりつかれるという谷崎の図式もある。晩年の「瘋癲老人日記」が集大成かもしれない。

ただ、この言葉の意味には周囲から愚かしく見えても自分のやることをこつこつとやり続けるということを表現するという要素があって、それを政治家は言いたいらしい。違うだろ~。これは、毎日の平凡な生活を繰り返し放り出しもせずに黙々と仕事に向き合うというのを愚直と表現する人間の知恵だ。
だって、頭に愚かという言葉を付けて尊いものだという意識があるのだから。農業や漁業に従事する人たち、あるいは物作りの職人さんたちは毎日同じような仕事を続ける。そんな要領の悪いことをよくしているな、と見ながら紙(紙幣)から紙を生み出す仕事をしている人たちとは一線を画す。

政治がポピュリズムによって揺れ動くという現象が生まれてから相当の時間が経つ。ポピュリズムの鍵となるのは、言葉を決めることだ。躊躇なく言い放った言葉が浮遊する。首相が自分の名前と経済を繋ぎ合わして、メディアもそれをジャーゴン(決まり文句)としてばらまいていく。
なんだかよくわからないままにして、それを増長していくのはSNSという新たな言葉の渦だ。固有の名前を消して、匿名のままそれは渦のように本質を吸いこんでいく。やれやれ、と言うところ。
本来のジャーゴンの意味は失語症の人が発する言語形態のはずだ。

ポピュリズムは人気によって権力を高めていくのだが、それは歴史的にみて何度も繰り返されていることだ。フランス革命の時のロベスピエールとかダントンの人気はすごいものだった。近いところでは、ヒットラーであり、毛沢東であり、スターリンかもしれない。
この権力者に共通なのは排除することだった。排除から生まれるのが熱狂であることは歴史が示している。もちろん、その熱狂の度合いは独裁者の求心力(磁場)に比例するのだけど、この国は求心力よりは同調圧力の方が機能していると思う。はい、日本のことです。
GDPで上位にいる国の中で、日本の特徴は国を攻めとったり逆に攻めとられて違う国名になるようなことを経験していないことだ。アルフォンス・ドーデの小説「最後の授業」のような光景を思い浮かべればいい。学校で自国語ではない言葉で授業をうけるということだ。もちろん、アメリカの影は今でも根強いのだけれど。

イデオロギーが対立軸として機能する状況は変化して、今は宗教を軸とした紛争がある。ただ、全体としてのグローバリズムと名札を付けられた考え方は経済原理を基本にしているので、そこで世界はバランスをとっている状況に見える。

個人的には戦後のグローバリズムの家元は中国だと思っている。領土を見ればわかるし、華僑の存在も第二次世界大戦のあとにじわじわと浸透した。「白猫・黒猫論」から「先富論」までの流れでそうなった。13億も人がいる国なんて面倒だろうな。

そんなことをぼんやり考えていたら、ふと思ったことがある。
動物は寡黙な生き物だな、ということ。最近、セミは騒がなくなって静かだけど、言葉をもたない動物は寡黙の中で生きている。うちの2匹の猫もそうだ。どこにいるのか、と探すことがあるくらいだ。特に妹の猫はよく行方不明になる。

以前、TVで動物のドキュメンタリーを見た時に、子どもを守ろうとする母親が天敵の動物に猛反撃をして撃退する映像があった。相手は、子どもを獲物にすることができずにしょげて帰っていったが、この失敗した動物はおそらくいい訳をすることはない。

政治家の言葉が浮遊する時、それはほとんどがいいわけであり、自分を守るための言葉なのだ。何かを説明しなくていけない、でも、その説明で自分を守らなければならない。説明の稚拙な人はバラエティ番組の餌食になるし、インタビューするメディアも弱みを見せた小物には失礼な言葉を飛ばすことができる。そして、足の着いたような言葉を発する政治家は少ないのが現実だ。

かくして浮遊する言葉が漂うわけだが、人間にとって言葉は大切なものだと思う。沈黙と秤にかけるくらい大事なものだ。霊長類ヒト科の動物だけが持っている貴重な能力なのだから。他にも美術や音楽などの能力はあるが。
誰でも、記憶の中に錘のようにぶら下がる言葉を持っているのではないか。ゆらゆらと揺れるお守りのように。その言葉はそれほど難しいものではないはずだ。

政治家というのは窮屈な職業で、いくつもの顔を持たなくてはいけないということは知っていたが、ダイバーシティ(多様化)という英語を使う政治家が今は排除という日本語を使う。言葉が空の彼方に飛んでいくような風景が見える。

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# by wassekuma | 2017-10-05 10:05 | 日常