人気ブログランキング | 話題のタグを見る

10月はたそがれの国

一昨日、誕生日を迎えた。67歳になった。
昨日は60歳で亡くなった父の命日だった。私が30歳の誕生日を越えた翌日に父はこの世から消えた。
ちょうど誕生日の日に友人と父の入院していた神戸の病院に行った。この時期には私は東京からしきりに帰郷していたのだ。父のベッドの横で、今日は自分の誕生日だと友人に話したら、横たわっていた父がこちらに目を向けて指を三本立てた。もう口をきくのも面倒だったのだろう。眼差しで伝わった。息子に対して、おまえは三十歳になった、と示したかったのだ。

あれから37年が過ぎた。今パソコンに向かいながら、このブログは何回目になるのか、とふと思って調べたら、297回になっていた。
ちょうど還暦を過ぎて始めたものだが、カテゴリー別にみると、やはり日常・社会の項目が160回近くで、文学の項目が60回になる。映画が44回。

自分の好みが集中したものだ。そして、今日の題目はカズオ・イシグロについて。
10月はたそがれの国_e0208107_06334836.png
若い頃の彼の写真。この人の作品は5年ほど前に映画「日の名残り」をDVDで見て、それから原作を読んだのがきっかけだった。この映画はジェームズ・アイヴォリーという監督に興味があったので見た。「眺めのいい部屋」という作品で注目された監督だ。珍しく、原作と映画の両方が好みにあったものだった。ジェームズ・スティーブンスという執事が主人公で、父子二代にわたってイギリスの貴族の館で働いている。このスティーブンスを演じたアンソニー・ホプキンスがいい。時が流れて、彼が女中頭だったケントン(エマ・トンプソン)と再会してから別れるラストシーンは印象に残った。

執事という仕事は冷静に正確に仕事をこなしていくものだ。自らの感情を押し殺して、無表情に仕事進める。多くの決まりごとを淡々と進めるのだが、彼も人間としての感情は持っていて、その心の奥と自分の仕事の流儀の葛藤が秘められていくという仕組みの小説だった。日本人であるという自覚の下に、イギリス社会の物語を書いていくことによって、イシグロは自分の影を作品に投影しているように思えた。

単純に祖国喪失者という見方ではない。著名な小説家で祖国から離れて故郷を書いた例は少なくない。J・ジョイスの「ダブリン市民」をまず思い浮かべるが、母国のアイルランドから遠く離れた異国の地でダブリンを描いた。ナボコフやベケット、そして、クンデラ、カフカなども母国語とは違った言語で表現した。
そして、カズオ・イシグロも日本語で小説を書くことはないだろう。「日の名残り」から彼の作品群を読み進めたけれど、日本を背景にした作品も残している。

この作家に興味を持ったのは、自分と同世代の作家ということもあった。フランスの作家、パトリック・モディアノやアメリカのポール・オ―スターもほぼ同世代。自分と同じ頃に生まれて世界の変動を見てきた作家たちだ。そこで、共通するテイストを感じた。

この作家たちは「記憶」ということにこだわっている。記憶を追い求めること、それが正確なものではなくて、幻想ではないか、という曖昧な領域も含めて描こうとする。自分の記憶を探し求めていく。
P・モディアノなどは主人公が戦前の新聞の写真を見て、その人間を探すという物語まで書いている。なぜ、それほど過去と記憶にこだわるのか。

ぼんやりと思うのだけど、おそらく「何かを伝えたいという願望」が極めて強く、それが書くことに繋がっているのだろう。あの頃の「時代」を隠喩として拡げていく。
それが、単なるノスタルジーに終わるものなら小説にする必要はない。昔はこんな風によかったんだ、というのはわかりやすい嘘だからだ。そんなことをあの頃は感じていなかった。生きていていいか悪いかは今でしか感じるはできない。その今(現在)が記憶として自分の内部に堆積していく。そして、ふと甦ったものを掘り下げていく作業が始まる。何かを見つけるために書いているようなものだ。

結局、ものを書いていくことは、洞窟を歩き回って何かを探していくという行為に似ている。一行先が読めないのだから。自分と同世代の作家のことを考えていたら、そんなことを思った。
そして、この作家たちも自分と同じように「たそがれの国」の住人なのだ。彼らには「たそがれの国」の風景がどのように見えているのだろうか。

by wassekuma | 2017-10-14 07:01 | 文学  

<< 廃墟について 1 言葉の浮遊について >>