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廃墟について 2

もう師走も半ばになっている。はやいなあ。
今年最後の応募原稿がようやく完了して一週間が過ぎた。今回の作品は400字詰め300枚というボリュームだったので構成には苦労した。
小説の舞台は過疎地。老人たちの寄り合いを描くために想像力を駆使せざるを得ない。老人たちにも町起こしという考え方と、もう滅びるのに任せればいい、という二つの考え方がある。これを集まった人たちが議論する。そんな情景も描いた。

前回触れた三陸のエリアでも震災時の崩壊した建物を残すのか、撤去するのか、という議論があった。将来に向けて悲惨な歴史をモニュメントとして、また教訓として残したいという考えと、その建物にいて津波に流された肉親がいるので、それを見る度に思い出す、速く工事をして更地にしてほしい、という考えが向き合っていた。

忘れる、忘れない、という問題だともいえる。滅びたものや亡くなった人たちが残しているのは、今生きている人々であり、それは明確な区分だ。それは、建物という具体的な形だけではなく、思い出とか記憶としてそれぞれの人々に残っている。そして、残された人々は今を生きるしかない。

旅をしていて、滅びそうな町並みの風景を見ることがあるのだけれど、そこでも人の声が飛び交い、人間同士のつながりがある。今年は帰省を含めて15回の旅をした。今月の後半も予定している。スペイン旅行、夏の木曽路と秋の東北は印象に残っているが、先月の和歌山・加太への旅も印象的だった。これも友ヶ島にある日本の陸海軍の廃墟をみるのが狙いだった。なぜか廃墟に惹かれる。

こんな和歌山の小島に砲台を設置して意味があったのだろうか。記録を見ると、この砲台は一度も攻撃をしたことはなかった。防衛にはならなかったという事実だけが残された。敗戦前に準備されたが、沖縄戦があり広島・長崎への原爆投下があり、和歌山の海にある小島は沈黙していただけなのだ。
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この倉庫には弾薬関係が保管されていた。70年を経た今でも廃墟として残されている。おそらく戦時の際には兵士たちがしきりに行き来していたのだろう。今では友ヶ島は無人島になっていて、夏の時期だけは海水浴の客が訪れる。それ以外の時期は草木の茂る荒れ果てた風景が拡がっている。海の家らしき建物もあるが、もう営業してないだろうというような廃墟同然の家もあった。

何の役にも立たなかった砲台と弾薬庫。この島に加太港から船で資材を運んで建築した人たちのことを考えると、虚しい気持ちになる。そして、国土防衛という旗印の下で集まっていた兵士たち。若い兵士が多かったと思う。
このような風景を見渡していると、あの時に歩き回っていた人々の声が聞こえるような幻想までもってしまう。多くの声が消えた。

海に囲まれた小さな島で一時期は賑わいを見せていたという人々の生活は、長崎の軍艦島や佐渡の相川などでも見てきたが、全てが廃墟になっている。炭坑、金山、そして、この友ヶ島の軍隊。そこには多くの働く人がいたということなのだが、もう記憶さえ残ってはいない。
南海電鉄の和歌山市駅の風景もさびしかった。駅の前にいた数人のグループが食事をしようと町を歩き回っていたが、閉じられた店だけが目立つ。人の姿も見えない。結局は見つからなくて困っていた。

政府が大臣まで配置する地方の活性化というお題目は空に浮かぶ雲のようなものだ。つかみどころがない。お題目ではない雲を眺めながら、また旅をしていく。そして、風景の中で土地に根ざす人の言葉を聞いていく。自然体で生きている人たちの言葉は素直に伝わってくる。一期一会の人との交わりは大きな旅の愉しみだと思う。

その旅の記憶を頭の中に巡らせながら、また工事現場の街に帰って来る。到るところにクレーンが立ち、バベルの塔のような建築を目指し、地面の上では、グローバル混雑、交差点の写真撮影で有名な街、渋谷に。この街に漂うのは金の匂いだ。見えない紙幣が空を飛び交っている。街に立つ人は広告宣伝に目の色を変える。
いつからこんな街になったのだろうか、とふと考えてしまう。

by wassekuma | 2017-12-15 09:28 | 日常  

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