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時代の空気について

昨年の末頃に興味深い本を読んだ。ユダヤ人問題を考えていくきっかけにもなったのだが、若い頃に読んでいたユダヤ人に関するものや、ヨーロッパの中での時代の動きを調べてみるかという気になった。

それが拡がって、チェコのミラン・クンデラを読み返してみたり、若手のフランスの作家、ローラン・ビネの「HHhH・プラハ1942」という小説を読んだ。
この本の変なタイトル(アルファベット4つ)は「ヒムラ―の頭脳はハイドリヒと呼ばれる」というドイツ語を略したものだが、ナチスの高官だったハイドリヒがチェコのプラハでイギリスの支援を受けたテロリストに暗殺されるという史実に基づいた小説だった。上官のヒムラ―(親衛隊SSのトップ)の部下だったが、様々な政策を実行していったのがハイドリヒでそのハイドリヒの部下があのアイヒマンという図式だった。

最初に述べた興味深い本というのは、デボラ・リップシュタットという歴史学者の書いたものだ。「否定と肯定」というタイトル。デヴィッド・アービングという歴史学者が「ホロコーストはなかった」という趣旨の論文を書いて、自らの講演のなかでもそれを主張しているのを批判した本を出版したら、そのアービングから名誉毀損で訴えられる。その裁判の経過を書いた本だった。示談などの交渉をせずに真っ向から裁判闘争に挑んでいくリップシュタットが記録として残し、それが映画化もされた。こんな感じの映画だ。
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リップシュタットを演じたレイチェル・ワイズや弁護士役のリチャード・ランプトン、デヴィッド役のティモシー・スポールがいい演技を見せる。イギリスで作られた映画。
この映画を見て、かなり昔になるがある雑誌が「ホロコーストはなかった」という記事を掲載し、それが原因で廃刊になったことを思い出す。こういった雑誌は時代を反映させるということなら、あの頃からそんな空気はあったのだろう。

今の日本の状況を見て思うのは、一定数の量で「排除の思想」を掲げることで快感を覚える人はいるし、それが権力の中枢にもあって時代の「空気」となっていることだ。もし、今、古代のギリシャ喜劇の作者が芝居を書くとしたら、材料には事欠かないだろう。悲劇の裏返しの喜劇として。

この映画のラストでは、裁判を終えたアービングが自分の見解を変えることなく語るシーンがある。メディアもそれに追随している。それが「空気」だ。
今のヨーロッパではネオナチの動きもあるし、一定数のヒットラー崇拝者もいる。アメリカの大統領もアフリカや南米の国に対する差別的な発言をした。小学生の悪ガキと変わらないような言葉を使って。世界がネット化していくなかで、無神経に受け止められている「言葉の軽さ」の次元だ。

ためらいや後ろめたさ、誰かが見ている自分の姿、そういったものを捨象して語ることがヒーロー視されるようになっていく。思い切りがいいほうが拍手を浴びるのだが、馬鹿の思い切りほどこわいものはない。そんな風に思った。
そして、もっと怖いのは、そういった言葉を発する人間を、忖度したまま腐敗していく人間たちだ。ナチスのシステムはそれによって支えられていたのだから。
アイヒマンは「自分は職務に忠実だっただけだ」ということを言って、忠実な官僚であったことを強調した。しかし、イスラエルの法廷に立つ彼は、感性の腐敗と想像力の枯渇を知らなかった。

ドイツの作家ヘルマン・ブロッホは「知られざる偉大さ」と「罪なき人々」という作品で、ナチスの時代の空気、時代精神を描いた。その当時、ナチスを支持して歓呼の声を挙げた人々も「罪なき人々」だったのだ。もうこの作品も読まれてはいないのだろうけど。
時代による「空気」の成分は気にしていたほうがいいと思う。
とりあえず、メディアの作りあげる空気にも消臭剤が必要かもしれない。ニュースの取り上げ方を見ていても、時々首をかしげる場合がある。本来は掘り下げることが大切な報道案件がどこかに消えている。いろいろな目眩ましで霞んでいるような印象を受ける。
正月早々にそんなことを考えた。
最近話題になっているAIについても考えたが、それは次回にでも。

by wassekuma | 2018-01-15 10:57 | 映画  

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